序章のはじまり[ヘイムダル編]3


 戦いはまだ続いている。攻撃に備えて、ヘイムダルは素早く自分の周囲を確認し、……顔を苦く歪めた。
 まずいことに気がついた。ヘイムダルが立っている場所は、避ける際にできるだけ行かないようにと気をつけていた部屋の最奥だった。一歩下がれば背中が壁に当たってしまい、逃げ場が少ない。しまったと思うが、今から動けば逆に身の危険が増すだけだ。
(一か八か……)
 ここで短剣を奪うしかない。
 ヘイムダルが背後の壁にちらと目をやった。
 頭の中に、たった一つ、一度きりの作戦が思い浮かぶ。
 ヘイムダルは表情を引き締めた。
 碧と深紫の双眸が互いを見据え、緊張が高まる。
 先に動いたのはロキだった。迫る彼に躊躇いはない。淡い灯りを受けて、手元の刃が無慈悲な輝きを放つ。
 ヘイムダルは冷静に残りの距離を目測し、ロキの攻撃が自分に届くまであと二歩というところで、足を引いた。背が壁に触れる。
 下がったヘイムダルを追うように、ロキが短剣を突き出す。
 切っ先が服に触れる寸前、ヘイムダルは体を左に傾けた。
 直後、室内に硬質な音が響いた。軌道を変える余裕のなかった短剣はそのまままっすぐ壁にぶつかって、衝撃でロキの動きが止まる。
 そのすきをヘイムダルは見逃さなかった。すかさず短剣を握るロキの右手首を強くつかむ。込める力に容赦はしない。少しでも相手に自由を許せば、冷たい鋼が自分の肉体を切り裂くという恐怖が、ヘイムダルの迷いを打ち消した。
 反抗される前に、動きを封じた右腕に向かって鋭い蹴りを放つ。
 ロキの顔が苦悶に歪む。くぐもったうめき声が唇からこぼれる。
 力の抜けた右手からすべり落ちる短剣を、ヘイムダルは手首をつかんでいた手を離して受け止めた。
(それで、次は……?)
 短剣を奪ったが、これからどうすればいいのか。
 自問自答したヘイムダルに、ロキが短く囁いた。
「ヘイムダル」
 それ以上の言葉はなかった。だが、まっすぐ向けられている碧眼から今までよりも強い意思を感じ、ヘイムダルは己の次の行動を悟った。
(まさか、切れというのか)
 傷つけることをできるだけ拒んできたヘイムダルの胸中には当然、戸惑いと躊躇いがうまれたが、すぐにその気持ちを追い払った。今は迷っている場合ではない。ここで躊躇したら今までの全てが台無しになる。漠然とだがそんな気がした。
 しかし、意を決したのはいいが、問題が一つ浮上する。ロキを切るにしても、どこを狙えばいいのかがわからない。部位は問わないのか、適切な箇所があるのか。
 ロキからあれ以上の言葉はない。いや、伝えたくとも余裕がないのか。眼前の彼の顔は苦しげに歪んでいる。それは先程の殴打の痛みからというよりは、もっと別の何かに耐え、焦っているようにも見えた。
(時間がない。どこだ――)
 そのとき、ヘイムダルは頭の隅に放置していた一つの考えを思い出した。断片的だった思考が急速に繋がり、重なり合い、曖昧だった全体像が明確に浮かび上がってくる。ヘイムダルの中で一つの仮説ができあがった。それにそって考えると、狙うところは一箇所だけになる。正しいという証拠はないが、本能的にそこだと確信できた。
 ヘイムダルは心を決めた。
 短剣を握り直し、ロキを見据える。狙うは一点、胸の中心――心臓の位置するところ。
 胸中にわだかまる感情を抑え込み、ただ己の力を信じて、ヘイムダルは短剣を一閃した。
「っ……!」
 ロキは避けなかった。
 ヘイムダルが短剣を振り抜くと同時に、彼は膝から床に崩れ落ちた。
 ……終わったのか。これで合っていたのか。
 ヘイムダルは不安げに切っ先についた血に目を落としてから、うつ伏せに倒れたロキを見た。
 今の一撃が成功したか失敗したかは、手応えでわかっていた。狙いどおり、心臓が位置する箇所を浅く切ることができた。出血はあるが、命を脅かすほどではない。
 だが、しばらく待っても、横たわったロキは微動だにしなかった。
 嫌な考えがヘイムダルの脳裏を過ぎる。大丈夫だと心の中で何度も自分に言い聞かせるが、不安は増すばかりだ。
 無事かどうかを確かめたくなって、ヘイムダルは屈んで彼に左手を伸ばした。
「……う」
 手が肩に触れる直前、ロキが小さく声を発した。その背中がゆっくりと大きく上下をはじめる。
 ヘイムダルは手を引いて立ち上がると、一歩後ろに下がった。念のために手元の短剣を意識しながら、ロキの様子を見守る。
 ロキはしばらくうずくまった体勢で深呼吸を繰り返していたが、やがて腕を支えにして大儀そうに上半身を起こした。その胸の中心には、黒ずんだ血が一文字に肌と服にこびりついていたが、傷口はすでにふさがっているようだった。倒れている間に、ロキが自分で魔術によって治療したのだろう。
 ヘイムダルは眼前の彼を慎重に見極めながら、口を開いた。
「ロキ……なのか?」
 妙な質問だと、発したあとにヘイムダル自身で思ったが、そう訊ねずにはいられなかった。推測が正しければ、かけられていた術が解けて普段の彼に戻っているはずだが……。
 ロキが顔を上げて、ヘイムダルを見る。そこに浮かぶ表情は険しかった。しかし、含んでいるものは先程までとは質が異なる。戦意ではなく少々の疲労と不機嫌で、顔もどちらかといえばしかめっ面に近い。碧眼がヘイムダルをとらえるや、明らかな不愉快さを宿してやや半眼になった。
「こんな至近距離で相手が誰か見分けられないほど、目が悪くなったのか、ヘイムダル」
 冗談の欠片もない、皮肉だけが込められた台詞。その物言いに、いつもなら腹が立つところだが、今回ばかりはヘイムダルは苛立ちよりも安堵を感じた。口にされる内容については倒れる前とはあまり変らないが、声の響きや表情、まとう雰囲気には違和感がない。目の前の彼は自分の知るロキだと、本能が囁いている。
 ヘイムダルがほっとしてほとんど無意識に頬をゆるめると、眼前のロキの表情が気味の悪いものを見るようなそれに変化した。
「おまえ……俺が倒れている間に変なものでも食べたのか? それとも、また別の術にでもかかったのか?」
 不気味そうにそんなことを言われ、ヘイムダルの胸中から彼に抱いた心配や安堵はたちまち霧散した。言い返す口調に少なからず棘が混ざる。
「それだけ減らず口が叩けるのなら、大丈夫そうだな。……それで、ロキ。一体何がどうなっているんだ? また術がと言っていたが、俺も何かかけられていたのか?」
 目前の危険は去ったが、まだ謎は残っている。とくに、どうして自分がこんなところにいて、こんな事態に陥っているのかが未だにわからない。それにロキの言葉から察するに、ヘイムダルも何かの術をかけられていたらしいが、さっぱり身に覚えがなかった。
 ヘイムダルの問いに、ロキが心底呆れたように言う。
「なんだ、もしかしてわかってなかったのか?……ということは、まてよ。俺は危うくおまえに殺されかけたってことか」
 切られた胸を一瞥して、ひどく不愉快そうに顔を歪めたロキに、ヘイムダルの苛立ちが高まる。
 確かに先程の行動には確証がなく、賭けに近いものだった。それまでの言動から、ロキが身動きを制限される類いの術を施されていると推測し、他者を操作するような魔術の場合は心臓の位置に印を刻むということを知っていたから、胸の中心を狙ったのだ。考えが外れていたり、力の加減を誤ったら大事に至る可能性は高いと、わかっていたが、あの状況では悠長に考えている時間がなかったのだから仕方ない。そもそも、そんな危険を冒さないといけなかったのは情報が少なかったせいで、気づいたことに感謝こそされ、文句を言われる筋合いはない気がした。
「殺されかけた? それはこっちの話だ。もう少しうまく伝えられなかったのか」
「馬鹿か。そんなことができたらやっているに決まってるだろう。大体、俺だって術に完全に呑まれておまえを殺さないようにするのは大変だったんだぞ……ん?」
 不意にロキの視線がヘイムダルの顔よりも下に注がれる。
「おまえ、いつまで俺の短剣を持っている気だ? とっとと返せ」
 右手を出して返還を要求する彼に、一瞬ヘイムダルは返すのを躊躇ったが、拒んだら馬鹿にされることが容易に想像できたので、何も言わずに突っ返すように短剣を渡した。
 ロキはすでに乾いている、切っ先についた自分の血に目を落とすと小さく舌打ちして、短剣を腰の鞘に戻した。
「……ヘイムダル。おまえ、もしかして覚えてないのか?」
「何をだ?」
 不意の問いに、ヘイムダルは聞かれている意味がわからず、眉を寄せて聞き返した。
 いつのまにかロキの顔と声音から、負の感情は消えていた。彼は深い知性をたたえた碧眼で探るように数秒ヘイムダルを見つめたあと、ため息を吐いた。
「……いい。説明したほうが早そうだ」
 その態度が妙に鼻についたが、ヘイムダルが何か言う前に、ロキが言葉を続ける。
「今俺達がいる場所はアースガルドじゃない。ヨツンヘイムだ。巨人によって、俺達はここに連れてこられた。この建物に、俺とおまえは物騒な術をかけられて放り込まれたんだ。俺にかけられていたのは……」
「まて、ロキ」
 すらすらと語られていく内容の中で、重要な事柄がぼかされているのに気がついて、ヘイムダルが話を遮った。
「なんだ?」
 突然口を挟まれたことに、ロキが若干苛立った顔で用件を訊ねると、ヘイムダルはその碧眼をまっすぐ見つめながら、疑問を口にした。
「大事なことを言ってない。こんなことをした巨人……首謀者は誰なんだ?」
「……知らん」
 否定の台詞だったが、そこに生じた妙な間とわずかな表情の動きから、ヘイムダルはすぐに彼が嘘をついていると思った。
 語調を低くして、問いを重ねる。
「知っているんだな? 誰なんだ」
「……おまえの知らない奴だ」
「ふざけているのか」
「首謀者かどうか……わからないだけだ」
 どこか歯切れ悪く答えたきり、ロキは沈黙してしまった。
「ロキ」
 さらに問い詰めようとしたヘイムダルだったが、無言で見据え返してくる碧眼から、この件に関しては話すつもりはないという強固な意思を感じて、諦めることにした。こういう目をしているときのロキは、そう簡単に口を割らないことを経験から知っている。現状からしてここで時間を浪費するわけにはいかないと己を納得させて、ヘイムダルはため息混じりに話の続きをうながした。
「わかった。言いたくないのなら、言わなくていい。話を続けてくれ」
 呼吸一つ分ほどの間をおいてから、ロキが再び口を開いた。
「……俺にかけられたのは、おまえとの間に不和を起こして、おまえを殺す術だ。もっとも、術の力は不十分で、俺は完全に意識を奪われなかったけどな。ただ、どうしても不和を起こす以外の行動をとることができなかったから、解くためにあんな遠回しで面倒なことをするしかなかった」
 そこで言葉を切って、ロキは不愉快そうに息を吐き、胸の傷口に手を触れた。
 顔を苦く歪めた彼が抱く感情は、悔しさか憎しみかもっと他の何かか、ヘイムダルにはわからなかった。ただ、意思をくみ取って術を解くのを手伝った自分への感謝の念が全くないことだけは、はっきりと感じた。
 ロキは胸から手を離し、今度は心に溜まったものを出すようにため息を吐くと、話を再開した。
「それで、おまえにかけられたのは……ヘイムダル、変な夢を見なかったか?」
「ああ、見た」
 うなずくヘイムダルの頭の中に、すっかり終わったものだと思い、忘れていた白い印象がよみがえる。
「それがおまえにかけられていた術だ。意識が夢に入り込むほど目覚めにくくなり、もしも夢の中で死んだりしたら、一生目覚めることができなくなるっていう……趣味の悪い術だな」
「……夢の内容には、意味があるのか?」
「は?」
 話を聞いている間も夢の内容が脳裏にちらついて離れず、ヘイムダルがぼんやりとした面持ちで疑問をつぶやくと、ロキは顔をしかめた。
 訝しげな視線を寄越され、馬鹿なことを訊いたとヘイムダルは思い直して早々に質問を取り消す。白色の空間を追い払うように、頭を左右に振った。
「いや、なんでもない」
「それならいいが……ああ、そうだ。感謝しろよ、ヘイムダル」
「感謝?」
 今度はヘイムダルが訝しむ番だった。疑問形で復唱すると、ロキが不機嫌を顔に表す。
「おまえを夢から目覚めさせるために、俺がこっちから協力してやったんだぞ」
 そう言われても思い当たる記憶はなく、ヘイムダルは眉を寄せる。
(まてよ……)
 ふと目覚めたときのことを思い出して首に手を当てた。ここにあった違和感。それにさっきロキは言っていなかったか。自分は不和を起こす行動しかできなかった、と。
 嫌な考えが浮かび、ヘイムダルが深紫の瞳を細める。
「ロキ……おまえ、何をした?」
「さあな、自分で考えろ。……これで話は終わりだ」
 ロキは突き放すようにそう言って勝手に話を締めくくると、立ち上がってさっさと扉へと向かう。
「ロキ。巨人の目的はなんだ? やはり、アースガルドか?」
 ヘイムダルが慌てて後ろ姿に問いかけると、ロキは足を止めて顔だけで振り返った。
「目的については俺も知らない。だが、今までのことをひっくるめて考えたら、おまえの推測が正しいんじゃないか?……とにかく、逃げるなら今が好機だ。ヘイムダル、おまえは先にアースガルドへ帰れ」
 すぐにおかしな台詞だと思い、ヘイムダルは怪訝な表情を作った。
「おまえは帰らないのか」
「……俺にはまだやることがある」
 そう返答したロキの顔が、一瞬だけ悲痛に歪んで見えたのは気のせいだろうか。瞬きを一つ挟んだあとの深紫の双眸の先にある彼の姿は、振り返ったときと変わったところはなかった。
「やること? やることってなんだ?」
「………」
 聞き返すヘイムダルにロキは答えないまま、顔を前に戻した。その手が扉の取っ手にかかるのを見て、ヘイムダルは詰め寄り、肩をつかんだ。
「ロキ、何をする気だ? どうして帰らない?」
 語調を強くしてヘイムダルが再び問うと、ロキは彼のほうへ顔を少し傾けた。黒髪の隙間からのぞく碧眼には、鬱陶しげな光がちらついていた。
「おまえには関係のないことだ。やることが終わったら、俺もアースガルドに帰る。だから、ヘイムダル。おまえは先に帰れ」
 だが、何度言われようとも、ヘイムダルにうなずく気はなかった。先に帰還をうながす言葉を聞いてから、ずっと本能が彼について行くべきだと主張している。
「断る」
「俺の言葉が信用できないって?……ああ、おまえが俺を信用したことなんて、今までただの一度もないか」
 多少の呆れと自嘲を含んだ言葉に、ヘイムダルがむっとして言い返す。
「おまえだって同じだろう、ロキ」
「ああ、そうだな」
 どこか感情の薄い声でそう言って、ロキは正面に向き直ると、ヘイムダルの制止にそれ以上耳を貸すことなく、扉を開いた。