序章のはじまり[ヘイムダル編]4


 ヘイムダルはてっきり、自分達のいる場所がどこかの建物の一室とばかり思っていた。だが実際は、開いた扉の先に広がったのは廊下でも別の部屋でもなかった。視界に飛び込んできたのは、歪な形をした木々に、短い草が自生する乾いた地面、一面が灰色の雲におおわれた空だった。
 ロキは開く前から扉の向こう側が外であることを知っていたのか、現れた眼前の陰鬱な景色に驚いた様子はなく、さっさと室外に出て行ってしまった。淡々と歩を進める彼の先にあるのは、鬱蒼とした森だ。枝葉が複雑に重なり合い、降り注ぐ陽光が弱いために、内部の様子はよくわからない。
「ロキ」
 一人で歩いて行くロキを、ヘイムダルが慌てて呼び止めるが、すぐには何の反応も返ってこなかった。森の手前で足を止めてから、ロキはようやく顔だけをヘイムダルに向けた。しかし、一言も発することはなく、早々に森に向き直ると、短剣を抜いて手近の木から枝を切り落として、何事か作業をはじめた。
「………」
 どうするべきか、ヘイムダルは躊躇っていたが、一人で建物に残っていても仕方がないと、警戒しながら外に出た。
 肌に触れる外気は室内よりも冷たいが、身がすくむほどの寒さではない。それなのに、ヘイムダルは体温を根こそぎ奪われてしまいそうな恐怖を覚えた。なんとなく息苦しさも感じ、あまり長居をしたい場所ではない。
 ロキに目を向けると、彼は短剣を小刻みに動かしながら黙々と作業を続けていた。こちらに一瞥もくれない様子だと、疑問を訊ねたところで無視されるだけだろう。そう思い、ヘイムダルは少し離れた位置で、彼の作業が終わるのを待つことにした。
 その間に、部屋で聞いた話について考えを巡らせる。
(……妙だな)
 釈然としない気分で、ヘイムダルは内心で首をかしげた。
 考えれば考えるほど、こんなことをした相手の動機や目的がはっきりとしなかった。かけられていた術から単純に推測すれば、狙いはヘイムダルを殺すこと、あわよくばロキと相討ちになること、それによってのアース神族の弱体化、という答えになる。だが、突き詰めて考えると、すぐにそれではおかしい点があるのに気がつく。方法が遠回し過ぎる。術なんて使用せずに、捕まえた時点で殺してしまったほうが手っ取り早いのに、どうしてそれをしなかったのか。
(人質……いや、違うな)
 唯一思い浮かんだ単語をヘイムダルは即座に否定した。自分達が人質である可能性がほとんどないことは、今の状況が如実に物語っていた。
 ヘイムダルは振り返り、先程までロキとともにいた場所に目をやった。
 切り立った地面を真後ろにして建つのは、灰色の四角い小屋だ。石を積み上げただけの簡素な造りのそこは、一見して、人質を追いておく場所には少々心許なく思えた。手入れがほとんどされていないとわかる外壁は汚れ、ところどころ風化している。扉は薄い木の板一枚で、これも状態は良くなく、鍵はついてさえいなかった。室内に拘束具はなく、外に見張りがいなかったことも踏まえて考えると、人質という線は低過ぎる。
(他の理由は……)
 しかし、いくら考えても、終点は見えてこなかった。
 やはり、自分達をここに連れてきた巨人の正体について無理矢理にでも問いただすべきなのか。
 ヘイムダルがそこまで考えたとき、自分の名前を呼ぶロキの声が耳に滑り込んできた。
 思考を中断して視線を向けると、ロキは無表情に見返してきた。作業は終わったのか、すでにその手には短剣も枝もない。
「本当についてくる気か? 帰るのなら今のうちだぞ」
「一人で帰るつもりはない」
 きっぱりとヘイムダルが言い切ると、ロキは面倒臭そうに息を吐いた。それ以上帰還をうながすことはせず、だからといって温かく迎えるはずもなく、ロキは無言のまま一人で森に向かって歩き出した。
 すぐにでも生い茂る草木にまぎれてしまいそうな彼のあとを、一足遅れてヘイムダルが追う。
 こんな鬱然とした場所で、どんな用事があるというのか。
 疑念を抱きながらヘイムダルが森へ足を踏み入れたそのとき、全身に異様な負荷を感じた。まるで上から強い力で押さえつけられているかのような圧迫感に、思うように足を動かせなくなる。頭痛と吐き気、ときおり視界が黒く瞬き、徐々に立っているのさえ辛くなってくる。
 歯を食いしばって苦行に耐えるヘイムダルの耳に、前方を行くロキの声が聞こえてくる。
「入る前に気づかなかったのか? この辺り一帯は邪気が強いんだよ。とくにこの森は濃くて、巨人族ですらあまり近づかない場所だ。生まれもっての抵抗力のないおまえにはかなり辛いだろう。俺が用があるのはもっと奥だ。おまえは倒れないうちに、さっさと引き返したほうがいい」
 その言葉に、ヘイムダルは揺れる意識の中、小屋から出たときのことを思い出した。あれは寒さのせいだとばかり思っていたが、邪気のせいだったのか。
 今さら気づいた自分のまぬけさに、ヘイムダルは心の中で舌打ちして、目を閉じた。そのままゆっくりと深呼吸をする。原因がわかれば、対処法はある。己の魔力を高めて、体にかかる邪気の影響を軽減するのだ。永続的に使用できる方法ではないが、すでにヘイムダルの頭の中には『ここで帰る』という選択肢はなかった。
 幾分か体調が楽になって、ヘイムダルが毅然と前を見据えると、ロキは十歩ほど先で立ち止まり、半身で振り返ってこちらを見ていた。その表情に、ヘイムダルにたいしての不安や心配や労りは欠片として含まれていない。むしろ、頑としてついてくるのをやめない彼に、少し呆れているようだった。
「倒れても看病なんてしてやらないからな」
「こっちから願い下げだ」
 碧眼を強く見返して、ヘイムダルが歩みを再開する。
 ロキも軽口の応酬はそれっきりにして、彼が動くのを見ると、視線を外して森の奥に進んで行く。その足取りは全く他人の歩みを考慮していないものだったが、ヘイムダルは彼の二歩後ろをしっかりとついて行く。
 ほとんど足を踏み入れる者がいないというロキの言葉のとおり、森の中には道らしい道はなかった。進行方向に張り出した邪魔な枝葉を払い除け、ときにはくぐり抜け、浮き上がった木の根に足を取られないように注意しながら、歩を進めていかなければならない。森の中は日の高い時間帯でも薄暗く、太陽が沈みはじめれば、すぐに闇に閉ざされてしまうだろう。鳥のさえずりや虫の鳴き声のないそこは、踏みつけた枝の音や茂みのかき分ける音がいやによく響いた。
 こんなところに何があるというのか。捕まったことと何か関連があるのか。
 ヘイムダルの疑問は、森を進めば進むほど大きくなっていく。
 ロキは脇目もふらず、足場が悪くてもほとんど歩調をゆるめない。むしろ、どうにかしてもっと早く進めないかと苦心しているように見えた。彼は何かに焦っている。
「ロキ」
 呼んでも返事はなく、一瞥さえくれない。
 それでもかまわず、ヘイムダルは言葉を続けた。
「何をそんなに焦っているんだ?……一体、この森に何の用があるんだ?」
「………」
 だが、どちらの質問にも、返ってきたのは沈黙と無反応だった。
 ヘイムダルが聞き出すことを諦めかけたとき、不意に囁くような声が耳をかすめた。声量はごく小さかったが、森の静けさのおかげで聞き逃すことはなかった。
 しかし、ロキから発せられたのはこの状況では意外な言葉で、ヘイムダルは思わず復唱していた。
「シギュン……?」
 それはつまり、ロキは自分の妻のためにこの森にきた、ということか。
 だが、どうしてもヘイムダルには、この陰鬱な場所と彼女に繋がりを見出せなかった。
「ロキ、シギュンがどうしたんだ?」
 その問いに、ロキが答えようとする気配はあったが、寸前で何かが口にすることを押しとどめたようで、結局返答は何もなかった。
(シギュンとこの森……。彼女のためにやること……?)
 無言で歩き続ける彼の背中を見つめながらヘイムダルが考えていると、ふと一つの像が浮かんできた。白色の空間に横たわり、微動だにしないシギュンの姿。だが、あれは夢だと関係ないと、すぐに思考から追い出そうとしたが、意思に反して映像は消えてくれない。執拗にちらつく、まぶたを下ろした彼女の顔に、ヘイムダルははっとした。
 途端、白色の像は跡形もなく消えて、新たにアースガルドに向かって歩いてくるロキの姿が浮かんでくる。その表情は曇り、全く普段の彼らしくない。そして、腕には抱える何かがある。
 それも夢の中で見た光景ではあったが、白色の空間と同じ幻ではないと、今のヘイムダルには断言できた。
 心臓が速く波打ちはじめる。どうして今まで忘れていたのだろうか。あれは現実にあったことだ。
 よみがえった記憶が頭の中で徐々に展開されていく。
 アースガルドの外から戻ってくるロキ。こわばった顔の彼が抱くのは、目を閉じたシギュンだった。彼女の顔色は青白く、単に眠っているのではないと一目でわかった。驚いているヘイムダルを、弱々しい光をおびた碧眼がとらえる。ロキは訊ねられるよりも先に口を開いて短く告げた、エイルに連絡してくれ、と。ただならない様子に、ヘイムダルは詳細を訊く前に、治療の女神のもとへ急いで使いを走らせた。そして、黙して目の前を横切っていこうとしたロキに、腕の中のシギュンについてどうしたのかと問うたが、返ってきたのは茫然とした声色の「やられた」という、謎めいたつぶやきだけだった。
 それからまもなくして、ヘイムダルは悪い噂を耳にした。
 ――シギュンが死ぬかもしれない。
(……ロキはシギュンを助けるために、ヨツンヘイムに? じゃあ、捕まっていたことと関係はないのか……あ)
 もう一つ、ヘイムダルは忘れていたことにさえ気づかなかった記憶を思い出した。
 シギュンの一件から程なくして、一人の見知らぬ男がロキを訪ねてやってきた。用事の詳細は本人ではないと明かせないという相手に、ヘイムダルはアースガルドに入らないことを条件にロキとの面会を許可した。
 シギュンを抱えて戻ってきてからというもの、ロキは一度もアースガルドから出ようとはせず、他の神々とあまり会話もしなくなった。見かけることも稀で、ヘイムダル自身もあれ以来、彼を見たのはそのときがはじめてだった。
 呼ばれてやってきたロキは来訪者を目にした途端、驚きと怯えの混ざった表情を浮かべた。どことなく緊張した足取りでアースガルドの外へ出て、ヘイムダルから少し離れた場所で男と小声で会話する。ヘイムダルの耳をもってすれば話の内容を聞けないこともなかったが、配慮してやめておいた。だが今思えば、様子を見ているだけではなくて、聞き耳を立てていたほうがよかったのかもしれない。記憶はそれからすぐ、ロキが固い顔でこちらを振り返ったところで途絶えている。
 たぶん、それが忘れていた記憶の始終なのだろうとヘイムダルは思った。次に続くのは、あの白色の夢と小屋で目覚めたときのことだ。
(あの男が、俺とロキをここに連れてきたのか……?)
 その可能性は高いし、そんな気がした。だが奇妙なことに、その人物の特徴を思い返そうとすると、曖昧にしか頭に描くことができなかった。男のことを考えると、像はまるで生物のように手の届かないところへ逃げて行ってしまう。
(あの来訪者は、シギュンが倒れたことに何か関係があるのか?……だめだ、まだわからない)
 繋がりそうで繋がらない。答えを覆い隠す霧が少し薄まった程度で、輪郭は未だにはっきりと見えてこない。
 ぷっつりと切れた記憶の先をロキは知っているのだろうか。
 問うてみるべきかとヘイムダルが考えたとき、前を行っていた彼が不意に足を止めた。
 一足遅れて、ヘイムダルも立ち止まる。
 ロキの目の前には、一本の木があった。成人した一人の人間の両腕だけで幹を囲んでしまえそうなほどに細い木で、歩いてきた間に見かけたどの木々とも異なった形態をしている。空に向かって伸びる枝には葉が一枚もついておらず、散ってしまったのかと思って視線を落としても、地面にそれらしきものは見当たらなかった。全体の色は濃い茶色ではなく白と肌色の中間で、薄暗いそこではまるで木自体が発光しているかのように浮かび上がって見えた。
 ロキが細い木の根元にしゃがみ込む。何かを探しているのか、彼はそこに生えている草をしばらく手でかき分けていたが、おもむろに短剣を手に取ると一部を刈り取った。
 ロキが立ち上がり、ヘイムダルに振り向く。その左手には、見慣れない植物があった。本能的に毒々しさや禍々しさを覚える、黒い色をした細長い草だ。最初、森の中が暗いためにそう見えるのかとヘイムダルは思ったが、どうやら草本来の色らしかった。鴉の羽のように見事に黒い植物に不気味さを感じて、思わず顔をしかめる。
「それが……シギュンを助けるために必要なものなのか?」
「……ああ」
 ヘイムダルの言葉に、ロキは虚を突かれたような表情をしたが、すぐに平静さを取り戻してうなずいた。
 無表情でぶっきらぼうな物言いの中に、どこか安堵を含んだ優しい響きを聞いたような気がして、ヘイムダルは深紫の双眸を軽く瞠って彼を見つめた。
 好奇の眼差しを向けられて、ロキの表情がたちまち不愉快一色に変わる。
「なんだ?」
「……いや、なんでもない。それが目的なら、もうアースガルドに帰るんだろう?」
 明らかにロキは納得していない面持ちだったが、言い争っている時間が惜しいと思ったのか、ヘイムダルが濁した返答について問おうとはしなかった。やや不機嫌のこもった声色で、肯定の返事をする。
「ああ。ここからなら、きた道を引き返さずにこの森を――」
 不意にロキが口を閉ざした。顔が険しさとかすかな緊張をおびて、碧眼がすっと細められる。
 彼の視線が正面に立つ自分に向けられているのではないことを、ヘイムダルは直感した。後ろを振り返る。生い茂る草木に、葉の隙間を縫って落ちる弱々しい陽光。視界にうつるかぎりで、異変は見当たらない。ロキの意識は何に向いているのだろうか。そう考えたとき、離れた場所から小さな物音が聞こえてきた。草葉が擦れ合ったり、枝が踏まれて折れる音だ。誰かが近づいてきている。足音は自分達よりも一歩一歩が重々しい。遠くでかすかに草が揺れたような気がした。
「ヘイムダル」
 ロキが鋭く囁く。
 ヘイムダルが顔を向けると、彼は何も言わずに左腕をつかみ、引っ張るようにして森の奥へ駆け出した。
「ロキ!?」
 突然のそれにヘイムダルは体勢を崩しそうになりながらも、なんとか転倒せずについて行く。枝や草がぶつかって体のあちこちに痛みが走るが、文句を言っている暇はなかった。
 しばらくまっすぐ走り続けて、息が切れはじめたところでロキはようやく足を止めた。手を放して向き直った彼に、ヘイムダルが事情を訊くために口を開こうとしたが、眼前に何かが差し出されて、発言は遮られた。
「血を出して、その血をこれの模様につけろ」
「血……?」
 言われている意味がわからず、ヘイムダルは怪訝な表情で差し出されたロキの両手を見下ろす。彼の右手には短剣が、左手には模様の刻まれた木片が三つのっていた。
「何を言っている――」
「早くしろ」
 聞き返そうとしたヘイムダルをロキが苛々とした口調で急かす。
 その態度から切羽詰ったものを感じて、ヘイムダルは口を閉じ、言われたとおりに短剣を手に取った。左手の人差し指の腹を軽く切って、血液を木片の模様にこすりつける。
 刻まれている模様は二種類。全てが直線で構成されたそれがルーン文字であることは一目見てわかったが、刻まれている意味については複雑過ぎて、ヘイムダルには読み取れなかった。
 全ての木片に血をつけ終えると、ロキがもう一度、手を差し出してきた。
 そこにある黒い植物を目にして、ヘイムダルは彼の行動の真意に気がついた。
「先に行け、と?」
「誰かが足止めしていたほうが、帰れる可能性は高くなる」
 さらりと肯定するロキに、ヘイムダルは呆然とした。当然反対しようとしたが、発言を素早く察知したロキによって、拒否の言葉は封じられてしまった。
「武器もない、相手も知らない、そんなおまえに何ができるっていうんだ。足手まといになるだけだ。これを持って先に行け。あいつは俺が何とかする。……そのルーンはもしものときのためだ。同じ模様の二つが、いざというときの目くらまし。魔力を込めて、相手に投げつけろ。もう一つは、できるだけおまえの気配を消してくれる。帰り道だが、ここから西に進んで森を抜けろ。そのあとはわかるはずだ」
「ロキ……」
「何をしてる? 早く行け!」
 躊躇するヘイムダルの手に、ロキはやや強引に植物を押しつけると、返事を待たずに走ってきた道を戻っていく。
「おい!」
 ヘイムダルが止めようとしたが、ロキの姿は生い茂る草木の中にあっという間に消えた。
「………」
 前方を見据えたまま、ヘイムダルは数秒ほど逡巡したあと、舌を打つと木片と植物を懐にしまって、西へ向かって走り出した。