序章のはじまり[ヘイムダル編]5


 道中、渡されたルーンの木片を使うような出来事もなく、ヘイムダルは無事にアースガルドの地を踏んだ。慣れ親しんだ風景が見えたときは、安堵感と懐かしさが心の底から込み上げてきた。足を踏み入れたアースガルドは最後に見たときの記憶と変わるところはなく、どうやらヘイムダルが懸念していた事態は起こっていないようだった。
 行方不明になっていた彼の帰還に、他の神々は一様に驚き、そして喜んだ。どこへ行っていたのか、何をしていたのかと、ヘイムダルは口々に訊ねられたが、先にやらないといけないことがあると話を断って、足早にエイルのもとへ向かった。用件はもちろん、ロキから受け取った黒色の植物を届けるためだ。また、ヘイムダル自身もシギュンのことが心配だった。植物を手渡すと、エイルは見るからに安堵の表情を作った。アースガルドにある薬では手に負えず、シギュンの容態はかんばしくないようだった。それを聞いてヘイムダルが表情を曇らせると、「だけど、これがあればなんとかなるわ」とエイルは頼もしい微笑を浮かべて、彼に礼を言った。急いで薬の生成にとりかかる彼女と別れて、ヘイムダルはその足で、アース神族の主神であるオーディンに事の顛末を報告するため、館ヴァラスキャルヴに行った。
「ヘイムダル、ただいま戻りました」
 ヘイムダルの正面、床よりも一段高い位置にすえられた、世界を見渡せるという玉座フリズスキャルヴに腰掛けるのは、短い白髪の壮年の男。右目を黒革の眼帯でおおったその人物――オーディンに、ヘイムダルは一礼する。
「よく無事に戻った、ヘイムダル。おまえが突然に姿を消して、皆心配していたぞ」
 ヘイムダルが帰還したことは、他の者からすでに連絡があったのだろう。来訪した彼に、オーディンが驚いた様子はなかった。
「申し訳ありませんでした」
「それで、何があった」
 挨拶もそこそこに、オーディンが事情を問う。その口調に問い詰めるような厳しさはないが、包み隠さず答えることをヘイムダルに求めている。
 ヘイムダルは話をしようとして……困惑した。
(……どういうこと、だ?)
 話そうとしていた出来事がなぜかうまく思い出せない。頭の中には、巨人によってロキとともにヨツンヘイムに捕らわれていたこと、ロキがシギュンのために植物を探していたこと、彼が追っ手を足止めして自分だけが先に帰ってきたことが、漠然と浮かぶだけだ。具体的にそこで何があり、どんなやりとりをしていたのかがわからない。記憶が奇妙な歯抜けの状態になっている。忘れたというには数秒前まで覚えていた感覚があり、まるで自分が知らないうちに記憶の一部を切り取られてしまったような感じがした。
 愕然とした表情で立ち尽くすヘイムダルを、オーディンは灰色の隻眼を細めて怪訝そうに見ていたが、ふと何かに気づいたように視線を移した。
「フレキ」
 玉座の足元で腹這いになっている二匹の黒い毛色の狼を見下ろして、そのうちの一匹の名前を呼ぶ。
 フレキは起き上がるとヘイムダルのところまで歩いて行き、正面から暗色の眼で深紫の瞳をじっと見つめた。そして、彼の体の周りをゆっくりと一回りすると、オーディンに向かって短く一つ吠えた。
 狼の一連の行動を少し戸惑った表情で見ていたヘイムダルの耳に、静かな声が滑り込んでくる。
「ヘイムダル。何を持っている?」
 問われ、ヘイムダルが服の上を叩いて持ち物を探ると、懐に覚えのない固い感触がした。取り出してみると、それは三つの木片だった。全てに複雑なルーン文字が刻まれたそれらを目にして、木片がロキからもらったものだということを思い出した。同時に、なぜ忘れていたのか疑問を感じた。
「それは?」
「ルーン文字が刻まれた木片です。ロキが別れ際に渡してきた……」
 ルーンという単語に、オーディンの片眉が一瞬上がる。
「それをフレキに」
 言われたとおりに、ヘイムダルが木片を重ねて狼の口にくわえさせると、フレキはオーディンのもとまで運んで行った。
 オーディンは木片に刻まれているルーン文字をしばし観察して、口元に苦笑を浮かべた。
「こんなことをしたら、自分の首を絞めるだけだとわかっているくせに。まったくしょうがない奴だな……」
 やれやれといった調子でつぶやかれた台詞とその表情が示す意味が何か、ヘイムダルにはわからなかった。唯一、なんとなくあれが自分の記憶に関係しているような気だけはした。
 オーディンは表情をあらためると、木片の一つをヘイムダルに掲げて見せながら、それが本当は何であるのかを語った。
「してやられたな、ヘイムダル。これには、忘却のルーンが刻まれている」
「忘却……?」
 思わずつぶやいてから、ヘイムダルは告げられたことと繋がる疑問に気がついて目を瞠った。しかし、解けた謎が彼に与えたのは喜びではなく、さらなる戸惑いだった。
 うまく記憶が引き出せなかった原因は、あのルーンの木片で間違いないだろう。では、なぜロキはそんなものを自分に持たせたのか。覚えていられては困る記憶でもあったのか。しかし、帰ったらオーディンからの追及は免れない。それとも、個人的に記憶が存在するのが邪魔だったのか。
 答えを探して思考が奔走するが、疑問は減るどころか嫌な感情とともに増える一方だった。
「どうやら、あることを話そうとするとそれを忘れるようにしてあるようだな。効果を発揮してしまったあとでは、どうすることもできない。ヘイムダル、覚えていることだけでも報告を受けようか」
「……はい」
 ややかすれた声で返事をしたヘイムダルの胸中には、苛立ちとも不安とも悲しみともつかない、妙な感情がとぐろを巻いていた。
 淀んだ色のそれをもてあましながら、ヘイムダルは思い出せるかぎりのことをオーディンに話した。


 報告が終わり、ヘイムダルは自分の館ヒミンビョルグに戻った。
 今回の一件に関しては不明な点が多いこととロキが帰還していないため、処置は一旦保留となった。オーディンはヘイムダルに、一日の休暇のあとに見張りの仕事に戻るようにとだけ告げた。
 帰館してからも、ヘイムダルは幾度か記憶を掘り起こそうとしたが、新たに思い出せることは一つとしてなかった。どうしてロキが忘却のルーンを用いて、記憶を忘れさせたのかも不明のままだ。
 ロキが帰ってきたら、ヘイムダルは真っ先に問いただそうと思っていたが、彼はなかなかアースガルドに戻ってこなかった。トールやウルが何度かヨツンヘイムへ捜しに行ったが少しの手がかりも得られず、フリズスキャルヴをもってしても行方知れずのままだった。
 命が危ないとまで言われていたシギュンの体調は、黒色の植物のおかげで瞬く間に全快し、一度礼を言いに彼女がヘイムダルのところへやってきた。ロキについて訊ねられるかとヘイムダルは思っていたが、シギュンは行方不明の夫については何も触れなかった。ただ去り際に、唇を固く結んでアースガルドの外を寂しげに見つめていた。きっとロキのことを最も心配しているのは彼女だろうと、憂いの横顔を見守りながらヘイムダルは思った。
 今回の出来事を起こして、それっきり音沙汰のないロキにたいして、彼が巨人族に寝返ったのではないかという陰口を叩く者は少なくなかった。その話題を耳にする度に、ヘイムダルは複雑な気分になった。きっと当事者の一人ではなかったのなら、同じようにロキへの疑いを強くもっていたことだろう。だが、真意をとらえられない謎はあるのが、少なくとも彼の行為のおかげで、自分がアースガルドに帰ってくることができたような気はしていた。ヘイムダルはこの件に関しては、話題を振られても同調も否定もせず、沈黙を保つことにした。
 あの一件に進展があったのは、ヘイムダルがアースガルドに帰ってきて一ヶ月が経過した頃だった。
 いつもどおり、ヘイムダルが虹の橋ビフレストの袂で見張りの仕事をしていると、遠くに人影が見えた。目をこらして、ビフレストの上を歩く人物が何者であるのか認識した途端、ヘイムダルの心臓は大きく高鳴った。思わず、椅子代わりの平らな岩から腰を上げて、近づいてくる彼の姿を見つめる。
 確かな足取りでやってくるのは、間違いなくロキだった。
 胸中にふつふつとわきあがってくる感情が、喜びなのか、怒りなのか、もっと別のものなのか、ヘイムダル自身にもわからなかった。
 ロキがアースガルドのすぐ手前で足を止める。
 ヘイムダルは彼の正面に、まるで行く手を阻むように立っていた。
「ロキ……今まで一体何をしていたんだ?」
「別に。帰ってくるのに手間取っただけだ」
 不愉快そうに顔を歪めてロキが答えたが、その返答は質問とは微妙なずれをおびていて、ヘイムダルは奇妙な印象を抱いた。
 深紫の瞳で探るように、帰ってきた彼を見据える。外から見るかぎり、怪我の類はなく、顔色も悪くない。監禁されたり、ひどい仕打ちを受けたりはしていなさそうだ。面倒そうに見返してくる碧眼には、普段の彼らしい深い知性が宿っている。
「どいてくれないか、ヘイムダル。オーディンの奴に色々と報告しないといけないんだ」
「……ロキ、どうしてあんなことをしたんだ」
「あんなこと?」
「ルーンだ」
「ああ」
 ロキはうなずいたが、次いだ二の句は「必要だったから」という、またもや疑問の的を射ていないものだった。当然、ヘイムダルは訝しげな表情を作り、納得できる返答を求めたが、ロキはそれ以上その問いに答えようとはしなかった。語調を強くして、彼が放ったのはたった一言。
「詳しいことはオーディンに話す」
 それっきり、口を閉じる。表情は険しく、無言で先に通すように言っているのがわかった。
 しばらく二人は睨み合っていたが、ふとヘイムダルは上空を旋回する大鴉に気づいて、しぶしぶ道をあけることにした。
 ロキは一瞥さえくれず、目の前を横切って行く。
 そのままヘイムダルは無言で見送ろうしていたが、彼の背中を見た途端、不意に彼女のことを思い出して、ほとんど反射的に呼び止めていた。
「ロキ」
「今度はなんだ」
 苛立った様子でロキが顔だけを振り向かせる。
 そんな彼にたいして親切心を抱いたとは思いたくなかったが、なんとなく伝えておくべきだと思った。
「シギュンは無事だ」
「……そうか」
 ロキは素っ気なくそう返しただけで、さっさと顔を前に戻すと歩みを再開した。だが、短くつぶやいた彼の表情に、かすかにだが安堵が浮かんでいたのをヘイムダルは見逃さなかった。
「………」
 ヘイムダルは、遠ざかる後ろ姿をしばし見つめていたが、胸中にわだかまる感情に区切りをつけると、見張りの仕事に戻った。


 翌日、ヘイムダルはオーディンから呼び出しを受けた。用件は告げられなかったが、きっとロキが帰還したことで曖昧だった今回の出来事の全貌が明らかになり、自分への懲罰が決まったのだろうとヘイムダルは思った。故意ではないにせよ、見張り番という重要な仕事を無断で放り出したことには変わりない。どんな罰も甘んじて受ける覚悟をして、ヘイムダルは玉座の前に立った。
 しかし、オーディンの第一声は、予想にもしなかった、彼の心を戸惑わせるものだった。
「ヘイムダル、何か訊きたいことはあるか?」
 ヘイムダルは何を言われているのかすぐには理解できず、ただ深紫の瞳を瞠って、眼前の人物を注視するばかりだった。
 そんな彼の様子に、オーディンは質問の意味について言葉を重ねる。
「今回の出来事で、おまえは当事者であるのにほとんどのことを忘れてしまっている。最低でも自分の身に何が起きたのか程度は知りたいのではないかと思って、今日ここに呼んだんだ。答えられる範囲だが、訊きたいことがあるのなら答えよう」
「………」
 ヘイムダルはうつむき、黙考する。すぐに浮かんできたのは、昨日ロキに向けてした問いだったが、本当にそれについて自分は答えがほしいのか、あらためて考えるとよくわからなかった。そもそも忘れてしまった出来事についても、自分が今それを知ったところでどうするのか、知る必要があるのかさえ疑問に思えてきた。確かに何があったのかは気になる。だが、ロキがそんなことをすれば己の立場を危うくすることが明白なのに、わざわざ魔術を使用してまで記憶から消し去りたかったことだ、それはつまり、自分には必要がないものということではないのか。
「訊きたいことはないのか?」
 二度目の問いで、ヘイムダルはようやく返すべき言葉を見つけた。ただしそれはオーディンが訊くと言っているものとは異なる気がしたが、今訊ねたいことはそれしか思い浮かばなかった。
 絞り出すようにヘイムダルは質問を口にした。
「ロキは……彼は、本当に信用できるのですか?」
 疑問の内容にオーディンは驚いたようにわずかに眉を動かしたが、すぐにおかしそうに笑んだ。
「真面目なおまえらしい質問だな。……ああそういえば、ロキを連れてきたとき、最後まであいつを神族にいれるのを反対していたのはおまえだったな」
 そのときのことを思い出しているのか、笑みが深くなる。
 逆に、掘り起こされた過去に、ヘイムダルは妙に気恥ずかしさを感じて居心地が悪くなった。
「ヘイムダル。おまえはもう少しロキと仲良くしてみたらどうだ?」
 オーディンの不意の提案に、ヘイムダルは呆気にとられて言葉を失う。頭の中でロキと親しげに会話している自分を想像して……どんなに頑張ってもそんなことは無理だと思った。本能的な拒否感からか鳥肌が立ち、御前だとわかっていても頬がひきつるのを止められなかった。
 オーディンは口元に笑みをのせたまま、言葉を続ける。
「まあ、仲良く云々はともかくとして、おまえはもう少しあいつのことを知ったほうがいいぞ。あの巨人嫌いのトールでさえ、すぐに心を開いたんだ」
 そう言われても、ヘイムダルには肯定できる自信も、否定する気力もわいてこなかった。
「無理にとは言わないがな。……ああ、質問に答えていなかったな。今回の件に関して、確かにロキには非があるが、あいつはアースガルドに戻ってきた。現在のところ、わたしは信用している」
「……わかりました」
 はっきりと言われてしまえば、できる返事はそれしかなかった。
 他に質問はあるかと問われ、ヘイムダルはない旨を返した。
「そうか。なら、最後にわたしからおまえに伝えることがある」
 オーディンの顔から愉快げな笑みが消える。
 一瞬にして、ゆるんでいた場の空気が引き締まるのを肌で感じて、ヘイムダルの表情も真剣なそれに変わる。
 大声ではないのに聞く者の頭の芯にまで響く声音で、オーディンは告げた。
「ロキに今日からしばらくの間、アースガルドからの追放の処罰を下した。おまえを含む他の者達は、ロキに関して調べること、また接触することを禁止する」


 ヘイムダルが持ち場に戻ると、代わりに番をしていた者から、ロキがすでにアースガルドから出て行ったことを知らされた。ヘイムダルが不在時の出立は偶然ではないだろう。オーディンに謀られた感じがしたが、逆に顔を合わせなくてよかったのかもしれない。ヘイムダルはそう思い、少しばかりその配慮に感謝した。きっと互いに穏便に会話などできなかっただろうから。
 見張り番を交代したヘイムダルは、アースガルドの外に視線をやった。今ビフレストの先に目をこらしたらロキの姿が見えるだろうかと、そんなことを考えたが、すぐに無意味だと思い直した。
 正直なところ、ロキに与えられた懲罰に関して、ヘイムダルは驚いていた。何もないと思ってはいなかったが、追放とは一時的にとはいえ、随分と重い罰だと思った。そう感じるのは、あの会話の流れのせいもあるのかもしれない。だが、その反面、ヘイムダルには何の咎めもなかった。終始、自分の懲罰については触れないので、ヘイムダルが去り際に訊ねると、オーディンは「相変わらず真面目だな」と彼を揶揄して、今回の件に関しては何もないと答えた。今後はこのようなことが起きないよう、気をつけるようにとの注意だけを受けて、今に至る。
 ロキの追放の話はたちまちアースガルド中に広まったが、彼の居場所を捜そうとする者はいなかった。四日も過ぎれば名前すらほとんど誰も口にしなくなり、ヘイムダルが最後に耳にしたのは酒の席での、「ねぇ。もし、旅の途中でロキに会ったらどうすればいいの? 挨拶もしちゃだめなのかな?」という、ウルの本気なのか冗談なのか区別のつきづらい疑問だった。
 行方不明の一件以降、アースガルドには何事もなく、不穏な噂さえ耳にしない。安穏とした日々が続き、ロキが出て行ってから早くも九日が過ぎようとしていた。
 その日もいつもと変わらず見張り番をしていたヘイムダルは、こちらに向かって歩いてくる金髪の女性の存在に気がついた。
(あれは……シギュン?)
 礼を言いにきたときは例外として、基本的にアースガルドの出入り口にはくることのない人物に、ヘイムダルは内心で首をかしげた。
 シギュンはヘイムダルと目が合うと、微笑んで軽く会釈した。そして、彼が見張りをする場所から三歩ほど離れた位置で足を止めると、澄んだ青色の双眸をアースガルドの外へ向けた。
 それだけの所作で、ヘイムダルは彼女がどうしてここにやってきたのかを、なんとなくだがわかった。ロキのことだろう。
 本来なら女神が一人で居ていい場所ではないのだが、外に出ようとする様子はないため、ヘイムダルは黙認して仕事を続けることにした。
 シギュンはしばらく無言で外界を見つめていたが、不意にぽつりとつぶやいた。
「ロキは……あのときのことを、オーディン様になんとお話ししたのでしょう」
 小さな声でもはっきりと耳に届き、ヘイムダルは思わず彼女を見たが、青の瞳はどこか悲しげな色をおびて前方に向いたままだった。
(あのとき……?)
 いつのことを言っているのだろうか。ロキとヘイムダルが行方不明になっているとき、彼女は床に臥していたはずだ。
「私には何の咎めもなかったということは、たぶん、私がアースガルドの外に出たいと言ったことは、話していないのでしょうね」
 そこまで聞いてヘイムダルは、彼女の示している日がいつなのか、何のことかを悟った。自分が行方不明になる前、シギュンが倒れたときのことだろう。しかし、ヘイムダルの記憶にあるのはまぶたを閉じた彼女を抱いてロキが外から戻ってくる映像だけだ。出て行く場面がないのは、きっとヘイムダルが見張りを他の者に任せてここから離れていたときだったからだろう。
「私があんなことを言わなければ、ロキは……」
 そこで言葉を切って、シギュンがヘイムダルを見る。
「あなたにも迷惑をかけることはなかった。本当にごめんなさい」
「いや……」
 シギュンの謝罪に、ヘイムダルはどんな言葉を選べばいいのかがわからず、曖昧にしか返事ができなかった。ただシギュンの願いがなくても、ロキや自分には似たようなことが起こっていたのではないかと、根拠はないがそんな気がした。しかし、それもここで彼女にかける適切な言葉ではないと思い、結局あれ以上は何も言えずに口を閉じた。
 シギュンが再びアースガルドの外に目をやる。小一分ほど外界を見つめ続け、一度祈るようにまぶたを伏せると、あらためてヘイムダルに向き直った。
「お仕事中に失礼しました」
 そう言って軽く腰を折ると、シギュンはきた道を戻って行った。
 ヘイムダルは彼女の後ろ姿を見送ると、アースガルドの外に顔を向けた。
 綿のような白雲が浮かぶ青い空に、短い草の生えた草原。その少し奥には、風に吹かれた薄布のように揺らめく赤い炎をまとった虹の橋が見える。
「………」
 アースガルドに向かってくる人影はないか、ヘイムダルは目をこらして遠くを見つめたが、頭の片隅に描く姿をとらえることはできなかった。