序章のはじまり[ロキ編]2


(……相変わらず変なところだな、ここは)
 ヨツンヘイムともアースガルドとも、ましてや人間の世界ミッドガルドとも異なる雰囲気に満ちたその場所は、スルトがおさめる炎の世界ムスペルヘイムだ。
 実はロキは幼い頃、オーディンと出会うよりも遙か前に、ひょんなことからスルトに拾われて、一時の間この世界で暮らしていたことがあった。
 だが、久しぶりに訪れたにも関わらず、ロキの心には懐かしいという想いはわいてこなかった。むしろ、胸中には嫌なうずきを感じていた。ムスペルヘイムにいたときの思い出に、彼が郷愁を覚えるものは全くといっていいほどなかった。おもしろくない、忘れてしまいたいものばかりだ。
「何をそこでぼけっとしておるんじゃ。さっさと来んか」
 その要因の一つに呼ばれて、ロキは苦虫を噛みつぶしたような表情をして歩き出す。
 ここまで連れて来られてしまったのなら、もう逃げるのも面倒だ。どんな用事か知らないが、さっさと終わらせてしまおう。それがいい、そうしよう、とロキはもはや半ば自棄になって、スルトがいる場所まで足を進めた。
「まったく、おぬしは昔から手のかかるガキじゃのう」
「………」
 小言をこぼすスルトを軽く睨みつけて、ロキは視線を目の前で揺れる炎の巨壁に移した。
 普通ならば、自分の身丈よりも大きな炎には熱くて簡単には近寄れないが、眼前のそれからは全く熱気を感じなかった。
 だが、ロキの顔にはわずかに警戒の色が浮かんでいた。
(あいつが連れて来たんだから入れるよな……?)
 至近距離まで近づいても熱さを感じない赤い壁だが、ムスペルヘイムへの出入りを許されていない者がそこに体の一部でも触れさせようものなら、その炎にたちまち焼かれてしまう。それはロキだけではなく、他の神や巨人の多くが知っているムスペルヘイムの注意事項だ。
「安心せい。わしの後について入れば焼け死にはせん。行くぞ」
 彼の不安を読んだかのように言って、スルトは何の躊躇いもなく、巨大な炎に向かって歩いて行く。
 黒と赤の長身は揺らめく炎の中に音もなく呑み込まれて、すぐにロキの視界から消えた。
「………」
 言われた通りにロキが後に続く。そこをくぐった経験があっても、その世界の長が大丈夫だと言っても、やはり炎が体に触れる瞬間は緊張した。
 スルトと同じく、ロキの姿もあっという間に赤にまぎれて見えなくなった。
 炎の中は何の感触も熱さも感じなかった。視界は一面揺れる炎の像におおわれたがそれもほんの数秒のことで、すぐに様々な色と形が目の前に現れた。
 壁の内側は味気ない外側とは違って、豊かな色や穏やかな大気に満ちていた。
 地には青々とした草が茂り、そのところどころには薄紅や黄などの小さな花が顔を覗かせている。緑の一帯の奥には、淡い朱色の岩で造られた大きな建造物が鎮座して、それに集まるように同じ色合いのやや低めの建物が並んでいる。頭上には空も太陽もなく、代わりにまぶしいほどの白い光が満ちている。肺に落ちる空気は温かく、微かに植物のかおりがした。
 他の種族の間では『炎の世界』と呼ばれているのに、そこには少しも火の気配はなかった。二人が通って来た炎の壁も、内側からでは建物と同じ淡い朱色の岩壁となっていた。
「ところで、ロキ。おぬしの仲間は、おぬしとムスペルヘイムとの関係を知っておるのか?」
 突然そんなことを訊ねられて、辺りを見るともなく見ていたロキはやや面食らったような顔をして、スルトに振り向いた。
 彼の言葉にあった『仲間』とは、アース神族のことだろう。
「なんでそんなことを訊くんだ?」
「質問したのはわしじゃぞ」
「………」
 何か妙なものを感じながらも、ロキは正直に答えることにした。
「いや。話したことがないから、誰も知らないはずだ」
「ふむ。そうか」
 スルトは眉一つ動かさず、ただ淡白な声でそうつぶやくと、鮮やかな衣をひるがえして建物があるほうに歩いて行った。
(……ただの気まぐれか……?)
 今までのように一方的に終わらせられた会話だったが、今回はなぜかスルトの質問が気になってしかたがなかった。ロキの胸中から不安にも似た奇妙な感情がなかなか消えない。
 ――もしかして、スルトの用事というのは、今の自分にとってすごく面倒なことではないのか。
 ロキはふと思い、己の懸念を払拭したくて、慌ててスルトを追った。
「おい、俺に用って一体な――」
「こんなところで歩きながら話せることなら、わざわざおぬしをここまで連れて来てはおらぬ。わしが切り出すまで、おぬしはその口を閉じておれ」
(っ、こいつ……!)
 言い切る前に高圧的な返事をされて、わだかまっていた感情は別の理由で吹き飛んだ。
 ロキは苛立つと同時に、どうして内側に入る前に反抗しなかったのかと、数分前の自分を恨んだ。
 だが、ここまで来てしまったら、後悔も反省も後の祭りにしかならない。
 相手の敷地内で手を出すわけにもいかず、不承不承ながらも言われた通り、ロキは話しかけられるまで口を閉じていることにした。


「座るも立つもおぬしの自由にするがいい。わしはちと所用をすませてくる。どうせムスペルヘイムから出られぬのじゃから、おとなしくしておるのじゃぞ」
 脅しじみた台詞を残して、スルトが部屋の扉を閉めて去って行った。
 室内に独り残されたロキは、逃げようとするだけ無駄だとわかっていたので、さっさと長いすの一つに腰かけた。
 スルトがロキを連れて行った先は、出入り口の巨壁からも見えた一際大きく荘厳な建物の、その中にある一室だった。
 内装は外装と同じく淡い朱色造りで、調度品は卓とそれを挟んで置かれた二つの長いすに棚だけと控えめだった。しかし、それぞれに凝った装飾が施されているせいか、もの寂しさは感じられなかった。
 静寂の中、妙なことになったと自分の現状を思い、ロキはため息を吐いた。
(ビューレイストを問い質したら、さっさとアースガルドに戻る予定だったのにな……)
 まさかムスペルヘイムに来ることになろうとは。
 スルトの用事とは一体何なのだろうか。ここに連れて来ないと話せない内容……どう考えても、自分にとっては良いことではないような気がする。
 ロキは下がる一方の気分をどうにかしようと、前向きにこれからの行動を考えることにした。
(とにかく、ここでの用はさっさとすませよう。そうしたら……一旦アースガルドに戻るか? いや、まだビューレイストから聞き出せて――)
 そこでロキの思考が一瞬止まった。
 不意に一つ、気になる出来事を思い出した。
(……そういえば、スルトの奴が変なことを言っていたな)
 ビューレイストがスルトに魔術を使ったときのことを思い返す。
 たしか、スルトは彼の魔術を『妙』と評した。ロキもビューレイストの魔術については妙な感覚を抱いているが、それはきっとスルトが口にした『妙』とは異なるものだ。
 あれはどういう意味だったのだろう。そもそもどうしてスルトは魔術を見せろと言ったのだろうか。
 ロキが考え込んでいると、かたりと部屋の扉が開く小さな音が聞こえてきた。
 考えるのを止めてうつむき気味だった顔を上げると、視界に入ってきたのは今しがた思考の中にいた人物だった。
「逃げ出さなかったとは偉いのう」
 戻ってくるなり軽口を叩くスルトに、ロキは顔をしかめた。
 不愉快を全面に押し出した表情を向けられても、スルトは一切気にとめず、ロキの向かい側にある長いすに彼と対峙するように座った。
「さて、ロキよ」
 闇夜を照らすというよりも闇の中で全てを燃やし尽くす炎のような瞳が、ゆるりとロキをとらえる。
 スルトの雰囲気がわずかに鋭いものに変わったのを感じ、ロキは内心身構えて次の言葉を待った。
「おぬし、あんな暗い森の中で何をしておったんじゃ」
「……おい。それが俺への用か」
「阿呆が。そんなわけなかろう」
 単なる興味じゃ、とその一言が付け加えられた瞬間、ロキの不機嫌は限界の一歩手前にまで急激に上昇した。
 ロキが二つの長いすを隔てる卓を両手で強く叩いて、腰を浮かせる。
「誰が乱入してきた張本人に教えるか!」
「それは残念じゃのう」
 叫んだロキに、スルトはちっとも気圧された様子なく淡泊に返事をすると、おもむろに懐から扇を取り出した。そして、鋭い眼光が宿る碧眼に見据えられる中、扇を広げて優雅に扇ぎ始める。
「……おい、スルト」
 のんびりとした風情を漂わせてあれっきり何も言おうとしないスルトに、耐えかねたようにロキが低い声を絞り出した。
「おまえは俺に用事があるからここまで連れて来たんだよな? だったら、その用事とやらを早く話せ!」
「ふむ……しかたのない奴じゃのう」
 どこか芝居がかった動作で、スルトがため息を一つ吐いた。
 扇ぐのを止めて極彩色の扇で口元をおおうと、深紅の瞳でひたとロキを見据えて、改めて話を始めた。
「ロキ。あのヨツンの者は誰じゃ」
「スルト! ふざけるのもいいかげんにしろ! 俺はおまえの用事についての話が聞きたいんだ!」
「じゃから、今しておるじゃろう。わしがおぬしにしてほしいことに関する話をのう」
「何を――」
 ロキの続く言葉は、入室の意を告げる音によって遮られた。
「入ってよいぞ」
 スルトが返事をし、ロキが扉のほうを振り返る。
「失礼します」
 凛とした高い声音が室内に響き、二人の前に、長い黒髪をうなじで二つに結った長身痩躯の女性がやって来た。
 突然の来訪者にロキは軽く碧眼を見開いて、逆にスルトは変わらない態度で声をかける。
「呼び出してすまないのう、シンマラ」
(……なんで、スルトの奴の妻がやって来るんだ……?)
 ロキが戸惑っていると、シンマラは恐いぐらいに静けさを宿した深く青い瞳をスルトから彼に移した。
「ご機嫌いかが。アースのロキ」
 長いすの手前まで足を進めて、挨拶というにはどこか皮肉がかった言葉を口にしたシンマラに、ロキは嫌な予感を覚えた。
 ロキが理由を探るようにちらとスルトを見たが、彼女を呼び出した張本人は扇を片手に無言で傍観に徹している。
 不意にシンマラがそのしなやかな片手を差し出すように前へ出して、何もない中空でつかみ取るような所作をした。
 途端、ロキの周囲の大気が揺らぎ、澄んだ青色をした炎が彼の体を取り巻いた。微妙に濃淡を変化させながら舞うように揺れる青き炎は美しく、不思議なことに熱さを全く感じなければ、どこも焼かない。
 だが、傍目には優美で神秘的なそれが有害なものであることを、ロキは昔にその身で持って知っていた。
「おいっ」
 突然の仕打ちに慌てて口を開くが、彼が怒りの疑問を言い切る前に視界がふっと黒一色に塗りつぶされた。残りの言葉は喉の奥に沈んでいき、改めて発することはできなかった。
 わずかな光さえない闇。辺りが暗くなったのか、自分が目を閉じたのか、ロキにはわからなかった。立っているのか、倒れているのかもよくわからない。急速に四肢の感覚が失われていく。
(シンマラの炎……だって? くそ、なんでこんな……)
 かろうじて残っている意識も不安定で、少しでも気を抜くと散ってしまいそうだ。
 どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか。
 ふざけるな、とロキは苛立ち、暗闇から脱しようと必死にあがいた。
「無駄なことはおよしなさい。あなたがわたくしの炎を破ることなどできはしません」
 距離感のつかめない妙な響きをともなったシンマラの声音が、耳からではなく直接頭の中に伝わってくる。
「ロキ。『ヨツンの者』についてのここ最近のあなたの記憶を見させてもらいます」
 その言葉が放たれた瞬間、ロキは己の内側に何かが入り込み、巡っていくような嫌な感覚を覚えた。ひどい圧迫感に意識がかき乱される。耐えようとすれするほど押しつぶされるような苦痛は強まり、ロキの意識は確実に弱まっていく。
(……ヨツン……だと……?)
 どうして彼らについての記憶を自分から調べるというのか。
 シンマラ――いや、スルトの目的はなんだ。何を企んでいる……?
 しかし、必死の抵抗も虚しく、ロキの思考はそれ以上の動きを止めた。
 気を失う寸前にふと彼の脳裏に過ったのは、ここに至るまでの始まりの出来事だった。