序章のはじまり[ロキ編]3


   ◆

「私も一度でいいから、アースガルドの外へ出てみたいわ」
 いつだったか、どこか羨ましそうにシギュンが青色の瞳を細めてそう言った。
 つぶやいた彼女にしてみれば、何の裏も意図もない、何気ない一言だったのだろう。
 けれど、彼女の放ったその言葉は、なぜかロキの心の中に深く残ることになった。


「……シギュン、明後日は暇か?」
 まだ遊びたいとせがむ子供達を寝かしつけて、ロキが妻のシギュンと二人きりで嗜む程度の杯をかわしていたある夜のこと。酌をする彼女に、ロキは不意にそんなことを訊ねた。
「とくに予定はないわ。……どうして?」
 注ぎ終えた蜂蜜酒の瓶を卓に置き、丁寧に答えを返しながらも、シギュンは小首をかしげて夫を見つめた。ロキが自分の予定を訊いてくることは今日までの夫婦生活の中で数えるほどしかなかったので、彼の問いにやや驚いていた。
 ロキは向けられている青い瞳をちらと見ると、注がれた蜂蜜酒を一口飲んで、どことなくぎこちなさを含んだ素っ気ない口調で答えた。
「俺も暇だし、二人で出かけようかな、と思って」
「……私とあなたで?」
「……他に誰と誰がいるんだ……」
 まさかそこを聞き返されるとは予想しておらず、ロキは表情を少し苦く歪めてシギュンを見やる。
 珍しい発言が連続したためか、シギュンはしばしぼんやりと瞬いていたが、やがてふわりと微笑んだ。
「ええ」
「決まりだな。時間は昼。あいつらは……トールの家にでも行かせればいいだろう」
 肯定の返事を耳にして、ロキは顔に笑みを取り戻すと心地よさそうに独りうなずいて、杯に口をつける。
「でも、どこへ行くの?」
「ん? あー……おまえが行ったことのない場所だ」
 抱いて当然のシギュンの疑問に、返ってきたのは彼らしくない妙に歯切れの悪い答えだった。
 その夜、ロキはそれ以上話そうとはせず、まるで詳しいことはまだ秘密だとでもいうように、残っていた蜂蜜酒を飲み干すとそそくさと席を立った。


 二日後の昼下がり。一昨日の夜にかわした会話の通り、ロキとシギュンは二人で家を出た。
 道すがらようやく自分達が向かう先を聞いたシギュンは、その顔に驚きと不安を浮かべた。
「アースガルドの外……?」
「ああ。ミッドガルドに降りる。大丈夫。旅なんてしない、ちょっとした散歩だ」
 気楽な調子でロキは言って口元に笑みを作る。
「でも……外に出ることを許してもらえるかしら……」
 アースガルドの出入り口、見張り番のいる方角に目をやって、シギュンは心配そうにつぶやいた。
 アース神族のアースガルドの出入りは、基本的には自由ということになっている。ただし、この『自由』は四六時中誰でも自由に出入りができるという意味ではなく、オーディンなどに外出の許可をもらわなくてもいいという意味での自由だ。場合によっては、見張り番の判断で出入りを止められることがある。
 シギュンが心配していたのはそれだった。今まで幾度も外に出て無事に帰ってきているロキだけであれば、何の問題もなく外出を許されるだろう。しかし、神格の低い、何かあったときに自分自身を守れるかわからないシギュンと一緒で通してもらえるかは微妙なところだ。しかも外に出る目的は仕事ではなく、単なる私用の散歩だ。そんなことで外出の許しは下りるのだろうか。それに見張り番をつとめるヘイムダル神とロキは、どう譲歩しても良いとはいえない関係だ。
「ロキ……」
「俺に任せておけって」
 だが、懸念するシギュンとは対照的にロキの足取りは軽く、表情にも声にも無理をしている様子は全くない。
 シギュンは夫の言葉を信じることにして口を閉じた。彼女としても、心配や不安よりもアースガルドの外に出てみたいという気持ちのほうが強かった。
 たどり着いた出入り口には、いつものように見張り番が一人立っていた。しかし、その人物はロキと犬猿の仲のヘイムダルではなかった。
 ヘイムダルがどうしても見張りを離れなければならないときに、一時的に見張りを担当する者だ。彼と会話をしたことはシギュンには一度もないが、ロキには何度かあった。
「よう。あいつはいないのか」
「ヘイムダル神は所用で席を外しております。お出かけですか?」
 ロキが気さくに話しかけると、代理の見張り番は無表情に本来の見張り番よろしく生真面目な口調で言葉を返してきた。
「ミッドガルドまで散歩だよ。シギュンとな」
 その言葉に、見張り番の静謐を湛える瞳がロキの傍らに立つシギュンに向けられ、眉一つ動かさずに正面のロキに戻った。
「ロキ神、彼女は……」
「だめか? 俺と一緒だぞ。遠くには行かない。単なる散歩だ。すぐに戻る」
 相手の様子から発しようとしたであろう台詞を先読みして、ロキがすきを与えない速さでいくつもの言葉を並べ立てる。
 だが、碧眼の先の顔は硬いままで少しも揺らがなかった。
「そうであっても、ここをお通しすることはできません」
「……そうか、わかったよ」
 ロキは肩を落としてため息を吐くと、しぶしぶといった表情で踵を返す――ふりをして、素早く見張り番の額に拳を見舞った。
 諦めたかとつい気を緩ませていた相手はその不意打ちに抵抗することができず、あっさり一撃を受けた。
 ロキの手が触れた瞬間、見張り番の額との間にわずかに緑色の閃光が走った。
「っ、う……?」
 殴られたにしては妙に呆けたようなうめき声を発して、見張り番は手のひらで顔をおおい、ふらつきながら地面にしゃがみ込んだ。
 その様子を目で追っていたロキが不意にシギュンの腕をつかみ、彼女に顔を向けて囁くように告げる。
「シギュン。走るぞ」
「え……」
 目の前の一連の出来事に思考がついていけてなかったシギュンは返事らしい返事もできず、ロキに引っ張られるままに駆け出していた。
 二人がすぐ横を通って行っても、見張り番はしゃがみ込んだ状態で、声も顔も上げようとはしなかった。
 何の妨害もなく、ロキとシギュンはアースガルドの外に出ることができた。しかし、出入り口を突破してもすぐには止まることはせず、足元でゆらゆらと陽炎のように炎が舞う虹の橋ビフレストを越えてもなお、二人は走り続けた。
 シギュンの息が切れ始める頃になって、やっとロキは足を止めて彼女から手を放した。
「ここまで来れば、ヘイムダルの奴が戻ってきても気づかないな」
「ロキ……さっきの、何をしたの?」
 呼吸を整えながらシギュンが不安そうな面持ちで訊くと、ロキは彼女を安心させるように柔らかく微笑んで、わずかな時間に起きた先程の出来事について手短に説明した。
「あの見張り番に数分間の記憶を忘れさせる魔術を使っただけだよ。今頃は俺達に会ったことも忘れて、何事もなかったように見張りの仕事に戻っているだろうさ。それよりも、シギュン。ここがどこかわかるか?」
 うながされてようやくシギュンは自分が立っている場所を意識した。
 周囲に広がるのは、まるで天を目指しているかのように一様に高くまっすぐ伸びた針葉樹の群だ。重なり合う鋭い緑の先には、目を細めてしまうほどにまぶしい光を放つ太陽と、真っ白な薄布のような雲が清々しい青を背景にして浮かんでいる。
 二人がいるのは針葉樹の森の中だった。しかし、そこはアースガルドにあるどの森とも違っていた。生い茂る草木と平野よりも薄暗い場所である点は変わりないのに、漂う空気が、においが、色が違う。降り注ぐ光の印象さえ異なっている。目に映る景色は美しいばかりではなく、醜いばかりでもない。美と醜が巧妙に入り混じった、どこか不思議な魅力を持つ場所。
 ――ここは、アースガルドではない。
「ミッドガルド……? ここが人間の住む世界……?」
 話で聞いたことしかなかったアースガルドの外の世界にいることを実感して、シギュンの胸が高鳴り始める。同時に、見知らぬ土地への漠然とした不安も覚えて、もっとどこかへ行きたいと思いながらも、シギュンはその場から動けずにただ辺りに視線を巡らせる。
「シギュン、もう少し先に行こう」
 放っておいたら目を回すのではないのかというほどにあちこち見回している彼女の姿に微かに苦笑して、ロキが今度は腕ではなく手を取って歩き出す。
 どこからか響く鳥のさえずりと、風によって揺れる木の葉のざわめき、そして二人分の足音。それ以外の物音はしない静かな森の中をシギュンの歩調に合わせてゆっくりと歩き、腰ほどまである茂みを一つかき分けるようにして進んで行くと、短い草におおわれた拓けた場所に出た。
 二人の目の前に続く地面は、前へ行けば行くほど横幅が狭くなっていき、やがて終わっている。途切れた地の先にあるのは、徐々に暗さを増していく空と濃い鼠色に見える連なった山脈だ。やって来たそこは、突き出した崖の上だった。
 ロキとシギュンは半ばより少し先まで足を進めた。
 現れた崖下の景色に、シギュンは息を呑んで繋いでいる手に力を込めた。
 二人が立つ崖は、高所が苦手な者なら悲鳴を上げるか、腰を抜かしてしまいそうなほどに高かった。眼下に広がるのは、宝石のように輝きながらも、生き物のようにうねる灰青をした海だ。波が幾度となく崖の根元にぶつかっては砕かれ、白い輝きとなって海へと還っていく。
「ミッドガルドとヨツンヘイムを隔てる海だよ」
 目がくらみそうなほど高い場所にいるというのに、ロキは落ち着き払った声で説明する。
「対岸から向こうが、霜や山の巨人族が住む世界だ」
 ちっとも動じていない彼の様子を受けて、シギュンも少しずつ平静さを取り戻して、この状況を楽しめるようになってきた。
 森の中とはまた違い、大気には潮のかおりがわずかに混ざり、どこまでも広がる雄大な景色は胸中の濁りが落ちるようだ。
 しばらくの間、どちらも何も言わずに崖からの景観を眺めていたが、不意にシギュンが握っている手を引いた。
 どうしたのかと振り向いたロキに、幸せに満ちた微笑みが返る。
「ありがとう、ロキ。前に私が言ったことを覚えていてくれたんでしょう?」
「あ、ああ……まあ、な……」
 身のすくむような光景にも平然としていたロキが、感謝の言葉を聞いた途端、余裕を失って視線をさまよわせる。
 明らかに挙動不審な彼の様子に、シギュンは訝るどころかくすりと小さく笑った。
 その笑みに邪気はなく、向けられたロキも嫌な気はしなかった。
 しかし、しどろもどろになっている自分自身には不甲斐なさを感じてしかたがなかった。
 一言でもいいから何か言おう、このままではいけない、と必死に頭を回転させて言葉を紡ぐ。
「……あー、シギュン。せっかくだから……もう少し、下に行かないか……?」
 だが、結果は前の発言とあまり変わらない、挙動の不審さが滲み出た台詞だった。
「そうね――……」
 シギュンが口を開く。しかし、彼女の返事は突然の強い風によって途中でかき消されてしまった。
 背後の森が喧噪のような音を立てて、頭上の薄雲は激流に呑まれた葉のごとく流れていく。
 吹き荒れる風にロキは思わず目を細めた。自身の長い黒髪が激しく乱れて、狭くなった視界を遮る。
 まるで襲いかかってくるかのような風に、ロキが傍らにいるシギュンのことを気にかけたとき、ふっと目の前が薄暗くなった。ほぼ同時に暴風が止む。
 顔にかかった邪魔な黒髪を手で後ろに払い除けたロキは、取り戻した視界の中にいるはずのないものを見つけて、目を瞠った。
 崖の先端に、彼と向き合う形で一人の男が立っていた。
 ロキと似た真っ黒な髪に、強靭さを宿した大きな体。相対するその人物の表情には微かな笑みが浮かんでいるが、見据えてくる新緑のような色の瞳は抜身の剣のように鋭く冷ややかで、好意は一切感じられなかった。
(な、んで……)
 男は一体いつからそこにいたのか。いや、どうしてここにその男がいるのか。こんなところに彼がいるのはおかしい。……そう、おかしいのだ。今ここにある全てが、妙だ。
 驚きのあまり止まりかけていたロキの思考が急速に動き出して、この場に起きた異変をはっきりと認識する。
 急に暗くなったのは太陽が雲に隠れてしまったせいだとロキは思っていたが、そうではなかった。
 周囲の景色はロキと正面に立つ男を除いて、全て色褪せて止まっていた。白く輝いていた太陽は灰色に濁り、空も大地も同様に明るさを失っている。鳥の鳴き声も、葉擦れの音も、風の感触もしない。
「立派に神としての役目を果たしているか、ロキ」
 耳を打った男の声に、ロキは一瞬呼吸するのを忘れた。
 そこには揶揄するような響きがあったが、彼の意識をかき乱したのは言葉の内容でも含められた感情でもなかった。
 男の声音には聞き覚えがあった。無意識のうちに古い記憶が掘り起こされて、視線の先の人物と合致する。
 男が最初に予想した人物であることを確信して、ロキは背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
 唐突にこの場から逃げ出したいと思った。本能が拒絶を示している。
 だが、ロキはそこから動かなかった。後ずさりしたい衝動をこらえて、相手に自分の感情を気づかれまいと碧眼を鋭くして、必死に毅然とした言葉を発しようとする。
「どうして、おまえがここにいる……。境界近くとはいえ、巨人族がミッドガルドをうろついていると、その頭をかち割られるぞ。さっさとヨツンヘイムに帰れ。――いや、そうか。これは……魔術か」
 心臓が早鐘のように激しく打ち始めるのとは逆に、ロキの思考は徐々に平静さを取り戻していった。
 辺りから魔力の気配がするのにロキは気づいて、ここが一時的に魔術で閉鎖された空間だと悟った。目の前の男が、本物ではあるが実体のない幻だということも。
 しかし、だからこそロキには余計にわからなくなった。
 どうして男は今になって自分の前に現れたのだろうか。しかも、こんな形で。
「ひどい言いようだな。せっかくの、久しぶりの兄弟の再会だというのに」
 射るような眼差しと言葉を向けられても全く動じることなく、男が陰鬱な笑い声を立てる。
 ロキは胸中にひりつくものを感じながら、声音をとがらせて吐き捨てるように言い返した。
「誰が兄弟だって? 家族の縁は遠い昔に切ったはずだ。おまえはもう俺の兄でも何でもない」
「ああ、そうだ。俺とおまえはもう家族ではない」
 さらりと男が肯定する。そこに揺らぐ感情は微塵も含まれていない。むしろ、口元には薄ら笑いが浮かび、ロキの態度が愉快でしかたがないといった様子だった。
 気味が悪いとロキは思った。会話をかわした眼前の男に違和感を覚えてならなかった。容姿や声は確かに記憶にある通りだが、何か奥にあるものが異なっている気がした。
 ロキは頭の片隅で腰の短剣を意識しながら、威嚇するように疑問を投げつけた。
「俺に何の用だ?」
 男が口元の嘲笑をさらに深くした。緑の双眸に宿る不吉な光が強さを増す。
「復讐だよ」
「復讐……?」
 耳に届いた言葉に、ロキの表情が怪訝に歪んだ。
 報復されるようなことをした覚えがないといえば嘘になるが、もはやそれは遠い過去の話で、ロキの中ではとうにけじめをつけたことになっている。男は一体何のことをさして言っているのか。
 相手の言動に衝撃を受けるよりも、やはり何か妙だとロキは違和感を強くした。
 だが、意図を聞き返す暇はロキにはなかった。
「そうだ、復讐だ。全てを狂わせたおまえへのな、ロキ」
 男がそう言い切った直後、沈黙していた大気が騒ぎ出した。すさまじい風が巻き起こり、鋭い光がロキの視界を奪う。
 目を焼くようなまぶしさにロキは耐え切れず、小さくうめいて反射的に瞼を閉じた。
 周囲の魔力の変化に肌がうずく。背後で森がひどくざわめき立つ。白い光はどんなに堅く閉じても瞼の裏にまで染み入ってきた。
 くらむ頭に耳鳴りまでしてきて、ロキは飛びそうになる意識を必死で繋ぎ止めた。
 やがて、荒ぶっていた大気や光が唐突におさまった。
 ロキがゆるゆると瞼を開くと、目に映った世界はまるで何事もなかったかのように本来の色と生気を取り戻していた。
 黒髪の男の姿はなく、視線の先にあるのは不穏な色に染まっていく空とヨツンヘイムの暗い山々だけだった。
「……復讐、か……」
 男の最後の言葉が耳によみがえり、ロキがつぶやく。だが、今のところロキは自分の体調に関して異変はとくに感じられなかった。頭痛や耳鳴りはすでに止んでいる。
 先程までの出来事は一体何だったのだろうか。
 ややぼんやりとした面持ちでロキが考えていると、右手からするりと何かが抜けていくような感触がした。次いで、足元から鈍い音が聞こえてくる。
 機械的にロキが己の右側に視線を向けて、飛び込んできた光景に息をつまらせた。
 緩やかな金髪を地面に散らして、シギュンが倒れていた。
「シギュン!」
 ロキが叫ぶように名前を呼んで、急いで彼女を抱き起こす。
 腕の中のシギュンは力なくぐったりとしていて、顔色は青白い。一瞬嫌な考えが脳裏を過ぎったが、彼女から心臓の鼓動と呼吸を感じて、ロキはわずかに緊張を解いた。だが、安堵にまでは至らない。いくら名前を呼んでも揺さぶっても、シギュンは目を覚まさない。何の反応も示さない。彼女が単に眠っているわけではないことに思い至り、ロキは歯を強く噛み締めた。
 どうしてこうなったのか。これが誰の仕業なのか。
 深く考える必要はなく、すぐにロキはわかった。
「ビューレイスト……!」
 古き兄の名前を、ロキは怒りと悔しさの滲む声でつぶやいた。