序章のはじまり[ロキ編]4


 ロキが気を失ったシギュンを横抱きにしてアースガルドに戻ると、案の定、見張り番をしていたヘイムダルが驚いた顔をして問いたげな視線を寄越してきた。
「エイルに連絡してくれ。今から行くから治療を頼む、と」
 ヘイムダルが何か一声でも発するよりも先に、ロキは彼の手前で足を止めると治療の女神への言伝を口にした。
 ヘイムダルは一瞬迷った様子を見せたが、目の前の碧眼がいつになく弱々しいことと、抱かれているシギュンからただならないものを感じ取ったようで、理由は問わずに召使いの一人を女神のところに走らせた。
 ロキは自分の希望が叶ったのを見届けると、向けられている深紫色の双眸を無視して、感情の欠けた表情でさっさと歩き出した。今の彼には、あれ以上話したいことはなかった。
 だが、ヘイムダルが何も告げずに自分の前を通り過ぎるのを許すはずがなかった。
 去ろうとするロキに、すぐに制止の声がかかる。
「まて。何があったんだ、ロキ。シギュンは一体どうしたんだ?」
「………」
 ロキは立ち止まりはしたが何も言わず、ヘイムダルを見もしなかった。自分の腕の中のシギュンを見下ろして、無表情に押し黙っている。
「ロキ」
 語調を強くしてヘイムダルが名前を呼ぶと、ロキは一呼吸分の沈黙の後に小さく唇を動かした。
「……やられた」
「なんだって?」
 思わずヘイムダルが聞き返す。聞こえなかったわけではなく、込められている意味を理解することができなかったのだ。
「それは、どういうことだ?」
 顔をしかめてさらにヘイムダルが訊ねるが、今度の問いにロキは何も答えなかった。
 碧眼を進む方向に向けると、ロキは沈黙を保って歩みを再開する。
「おいっ、ロキ!」
 呼び止めようとするヘイムダルの声と鋭い視線を背中に感じても、ロキは振り返ることも止まることもしなかった。


「……シギュンは、どうなんだ」
 静寂の室内に、ロキのどこか生気に乏しい声が落ちる。
 寝台に寝かされたシギュンを診ていたエイルが、後頭部の高い位置で結った亜麻色の髪を揺らして振り返った。鋭過ぎず柔らか過ぎもしないまっすぐな意志を秘めた茶色の瞳が、三歩ほど離れた場所に立つロキをとらえる。
「詳しく検査しないと今は何とも言えないわ。……ねえ、ロキ、シギュンがこうなった原因を貴方は知っているの?」
「……たぶん、魔術だ。ミッドガルドにいるときに巨人に襲われた」
 緑がかった青色の双眸に妙に虚ろな光を湛えて、ロキが淡々と答える。彼の視線は言い終わる前に、エイルから寝台に移っていた。
 感情の薄い返答を耳にするや、エイルの声音にやや固さが混じった。
「シギュンをアースガルドの外に連れて行ったの?」
「ああ」
 肯定するロキは今度は一瞥もくれない。その顔には妻のシギュンが心配であることが浮かんでいるが、どことなく上の空のようでもあった。
 エイルは微かに目を細めてさらに何か言いたげな表情を作ったが、開いた唇からもれたのは小さなため息だけだった。ロキと同じように彼女も傍らの寝台に顔を向ける。
 白い布の中に横たわったシギュンは、近くでかわされる二人の会話に何の反応も示さなかった。ロキの腕の中に抱かれていたときと変わりなく、血の気の薄い顔色で、瞼を閉じてただ静かに一定の呼吸を繰り返している。
 少しの沈黙の後、エイルは再びロキを見た。
「オーディン様への報告はしたの?」
「いや……」
「なら、早く報告に行ってきなさい」
 その言葉でようやくロキがエイルを見やる。その碧眼には探るような訴えるような意思が浮かんでいた。
 だが、エイルはあれ以上は何も言わなかった。ロキが次の行動を起こすまで、じっと揺るぎのない視線で彼を見据えているだけだった。
 ロキはもう一度だけシギュンに目をやると、黙って部屋を後にした。
 シギュンを連れて来たときに居合わせたエイルの部下が通路ですれ違いざま、ちらと好奇の視線を送ってきたが、今のロキにはどうでもよかった。無言でエイルの館を出て、オーディンのところに向かう。
 あの出来事から、彼の心は重たかった。ビューレイストとの再会による衝撃と足元が抜け落ちるような不安が、じわりじわりとロキの心身を痛めつけていた。
 ロキは自分の中心がくぐもった悲鳴を上げているような気がした。このまま倒れて意識を途切れさせてしまえたらどんなにいいだろうかと、ふと考える。しかしすぐに、自分にはまだやらないといけないことがあるのだと頭を左右に振って、弱気な思考を追い払った。唇を固く結んで歩き続ける。
 それからさして時間もかからずに、視界に一際きらびやかな建造物が入ってきた。
 ロキは目的地である、金と銀の装飾に飾られた館ヴァラスキャルヴの門の前で足を止めると、門番の一人にオーディンに報告をしに来た旨を告げた。
 取り次ぎのために門番が建物の中に姿を消すと、ロキは待っている間に不安定気味な精神を落ち着かせて、考えをまとめた。とくに、今回の件についてオーディンに何をどこまで話すのかを慎重に決めた。
「ロキ神、こちらへどうぞ」
 戻ってきた門番の後についてロキは開けられた門をくぐり、ヴァラスキャルヴに足を踏み入れた。
 アース神族の長の館だけあって、内部は豪奢な造りで美しく飾られていた。しかし、おおよその回数さえもわからないほどそこを訪れているロキは内装にわずかな感銘も受けなければ、ろくに見向きもしなかった。碧眼がとらえているのは、正面の階段の上にある大きな両開きの扉だけだ。
 門番とは館の出入り口から一歩入ったところで別れて、ロキは独り慣れた足取りで緩やかな階段を上っていった。
 上がりきった先にある幾何学な模様が彫られた扉は彼の身長の倍の高さと横幅があり、一見して重たそうだが、片側ずつに置いた手に少し力を込めただけで滑るように内側へ開いた。
 目の前に現れたのは、幾本もの太い柱に支えられた広々とした巨大な空間――アースの最高神と謁見するための広間だ。
 ロキは躊躇うことなく中に入った。手を放せば、扉は音もなく閉まった。
「ロキです、報告に参りました」
 扉を背に一旦立ち止まって、ロキが形だけのほとんど感情のこもっていない台詞を口にする。
 彼の視線と言葉の先には、灰色の瞳の片方を黒革の眼帯で隠した白髪の男がいた。
 部屋の奥、床よりも一段高い場所に据えられた、世界を見渡すことのできる玉座フリズスキャルヴに座っているその人物こそが、アース神族の長であるオーディン神だ。
 オーディンは、いささか不作法なロキの態度を咎めるでもなく、歩み寄ってくる彼に黙したまま隻眼を向けている。
 天井近くまで背もたれがある玉座の足元の左右には、それぞれ一匹ずつ黒毛の狼が腹這いになっているが、どちらも来訪者には何の反応も示さなかった。
 ロキが玉座から五歩ほど離れたところまで足を進めると、オーディンが微かに眉を動かして口を開いた。
「ずいぶんと顔色が悪いな、ロキ」
 それにロキの眉も動く。感情をろくに表さなかったオーディンとは違い、彼は不愉快を滲ませた表情を作っていた。
「理由なんてわかっているんだろう」
 ぶっきらぼうなロキの言葉に、オーディンは口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「さてな。……それで、シギュンの容体はどうなんだ?」
 全く偽ろうとする気配もなく、飄々と自分の速度で話を展開するオーディンに、ロキは少し苛々としながら答えを返した。
「まだ何とも言えない、だとさ」
「そうか」
 短くつぶやいて、オーディンが小さく息を吐く。そこに宿る感情は哀れみなのか憂いなのか。はっきりとしたものはロキには読み取れなかった。だが、その口が次に紡ぐ言葉が何であるかはわかっていた。
「それで、ロキ。どうしておまえは気を失ったシギュンを抱えて、アースガルドの外から戻ってきたんだ?」
 予想していた問いに、ロキは微かに目を伏せて、事前に考えていた答えを口にする。
「ミッドガルドにいたところを突然、巨人の一人に襲われた。何がどうなったのか、よくわからない。気づいたら、巨人の姿は消えていて、シギュンが倒れていた」
 それ以上は言わない。巨人の正体とかわした会話については、話すつもりはなかった。
「巨人一人におまえが手も足も出なかったとは珍しいな」
 返ってきたのは普段から口にされるような軽口だったが、オーディンの表情にはいつものふざけたような笑みはなかった。静かな威圧感がこもった左目が、ひたとロキを見据えていた。
 ロキは何も言い返さず、ただ隻眼とまっすぐ視線を合わせる。
「おまえはシギュンと二人で、ミッドガルドまで何をしに行っていたんだ?」
 続けて問われた内容にも、ロキはあっさりとした口調で答えた。
「散歩だよ」
「本当にただ散歩に行ったのか?」
「シギュンを連れて他に何をするっていうんだ?」
 眉をひそめてロキが聞き返すと、オーディンは口を閉じた。しかし、それは返答に渋っているという風ではない。凝視する灰色の視線は、眼前の人物の真意を見定めているようだった。
 一呼吸分ほどの短い沈黙をおいてからオーディンが口にしたのは、問い返しの答えではなかった。
「ヘイムダルからの報告によると、おまえ達がアースガルドから出て行ったのを誰も見ていないそうだが、これはどういうことだ、ロキ」
 様子がおかしいことだけではなく、そこまでちゃんと調べたあの真面目な仕事人に、ロキは胸中で舌を打った。
「シギュンと一緒に外に出ることを断られたから、記憶を操作する魔術を使った。相手はヘイムダルじゃなくて、代理人の見張り番だ」
 どうせ何をしたのかすでに見当がついているのだろうとロキが隠すことなく正直に答えると、オーディンは愉快げに微笑した。
「今日はずいぶんと素直に喋るんだな」
「答えを渋って何になるんだ。俺には何の利もない」
「まぁ、たしかにそうだ」
 オーディンが軽い調子でうなずくが、その隻眼は所作とは異なり鋭く、妙に意味ありげだった。
 じくじくとうずくような不快感を胸に覚えて、ロキが表情を歪める。
「なんだよ。これ以上訊くことがないなら、俺はもう――」
「今回に関しては、さすがのおまえでもずいぶんと堪えているようだな」
「っ……!?」
 自分の発言を遮ってつぶやかれた、気丈に振る舞っていることを見透かしたような台詞に、ロキは一瞬瞠目して、すぐにオーディンを睨みつけた。
 もしかして隠していることもばれているのだろうか。内心ひやりとしたものを感じながら、不機嫌と不愉快を前面に表わすことで本心を隠すのにつとめた。
「ロキ」
 発せられた二文字に宿る重みは今までの台詞とは違い、その声音は頭の芯に響いてくるようだった。
 オーディンの声が重要なことを告げるときのそれに変わったのに、ロキは気がついた。平静を装うとする意識に反して、心臓の鼓動が速くなる。続く言葉を待つほんの数秒が倍以上の長さに感じられた。
「確認するが、今日ここに足を踏み入れてから今までの己の答えに、偽りや隠していることはないな?」
「ない」
 胸中の淀みを感じさせない声でロキは即答した。この嘘がばれたらどうなるかは容易に想像できたが、いまさら己の意思を曲げて全てを語るつもりはなかった。これは自分の問題だ、他者を介入させたくはない。
 威圧感のこもった居たたまれなくなるような沈黙をしばし挟んで、オーディンがゆっくりとロキに処遇を告げた。
「ロキ。今回、シギュンの身に起こったことについてはおまえに責任は問わないが、それを招いた責任はある。おまえがやったことは口頭での注意だけですまされることではない。それなりの罰は受けてもらおう。処分は追って知らせる。それまでおまえには自宅での謹慎を言い渡す。……異存はないな?」
「ああ」
 うなずいたロキの脳裏に、ふと灰色の世界に立つビューレイストの姿が過ぎった。


 処分の知らせがロキに届いたのは、オーディンに報告を終えてから三日後のことだった。
 『今日から一月の間、アースガルドから他の世界に行くときは必ず主神オーディン――不在時は女神フリッグ――に、行き先と用事の詳細を話し、許可を得ることとする』
 それがロキに科せられた罰だった。
 処罰の内容に関して、ロキはたいして何も感じなかった。どこか他人事のようにも受け取っていたのは諦めからではなく、そんな知らせよりも思考を優先させないといけない事柄があるからだった。
 処分が決定したことで自宅謹慎が解かれた翌日、ロキは二人の息子ナルヴィとナリを連れて、妻のシギュンの容体を知るためにエイルのもとへ足を運んだ。
 数日ぶりに目にしたシギュンは、そこに運び寝かしたときと変わりなかった。静寂の中、血の気の薄い肌に、瞼を閉じて寝台に横たわるその姿は、まるで人形のようだった。
 不安と心配に歪んだ表情で一心に母親を見つめる子供達を寝台のそばに残して、ロキは別室でエイルからシギュンの容体について話を聞いた。
「最初に結論だけ言うと、シギュンの体調は良くも悪くもなっていないわ。……だけど、それは治療の成果ではないわ」
 意味深な台詞をつぶやいて言葉を切ったエイルの顔がわずかに曇る。その表情は、次に告げなければならない内容をどのような言葉で伝えるべきか、決めかねているようだった。
 しかし、ロキには彼女が言わんとしていることが何か、すでにわかっていた。ここに来て眠るシギュンを見て、目の前のエイルの雰囲気から、明るい結果が聞けるとは始めから思っていなかった。
 無駄な配慮なんていらないというように、ロキは躊躇う彼女の代わりに口を開いた。
「打つ手がもうないのか」
「……ええ」
 肯定したエイルの声には悔しさが滲んでいた。
 針で刺されたような鋭い痛みを胸に感じたが、ロキは何も言わなかった。無表情のまま、ただ事実を受け止めていた。
 少しの沈黙を挟んで、エイルがやや控えめにロキに訊ねた。
「……ロキ。貴方は、治療法に何か心当たりはないの?」
「何も」
 ほんの少しの思案もなくロキは答えた。
 問われたそれは、今日ここにやって来る前に彼の中ですでに答えが出ていた疑問だった。いくら巨人族出身とはいえ、ロキにはシギュンにかけられた魔術を過去に見たことはないし、聞いたことすらなかった。
 その後、重く薄暗い空気が払われることはなく、シギュンをまだ家には帰さずに引き続きここで様子を見るというエイルの提案をロキが承諾したのを最後に、話は終わった。
 エイルと別れると、ロキはまだ母親のそばにいたそうな子供達を言いくるめて部屋を出て、帰宅の途についた。
「ロキ!」
 だが、家まで残り少しというところになって、馴染みのある声が彼を呼び止めた。
 誰であるのか、ロキには確認するまでもなくすぐに声の主がわかった。だから、そのまま無視して先に行ってしまおうかと思ったが、一緒に歩いていたナルヴィとナリがそちらに気を取られて立ち止まってしまったので、しかたなくロキも足を止めて視線を向けた。
 予想通り、視界に入ってきたのは現在会いたくない人物のうちの一人だった。
 足早に寄ってくる赤い髪の男に、ロキは素っ気ない口調で用件を訊ねた。
「何の用だよ、トール」
「おまえに話があるんだ」
 そう答えたトールがロキを見据えるその茶色の瞳はやけにまっすぐで、物言いは明らかに偶然見かけたから挨拶がてらに声をかけたという風ではない。
 ロキは少し顔をしかめながらも、あれ以上深く問おうとはしなかった。数秒間の黙考の後、わかったと短く返してトールの誘いを受けることにした。
「おい。俺はトールと話があるから、おまえ達は先に家に帰ってろ」
「えー」
「やだぁ」
 ロキが傍らの子供達に先の帰宅をうながすと、返ってきたのはいつもと違い、すがるような響きをともなった反応だった。
 二人ともロキの服の裾をつかんで、不満げに唇をとがらせて彼を見上げている。一見してその顔は普段のすねている子供達のそれだったが、見つめてくる幼い二対の青の瞳はわずかに寂しげに揺れていた。
 ナルヴィとナリの胸中をロキは悟ったが、トールのしたい話とやらは彼らを連れてできるものではないということもわかっていた。だから、表情を険しくして「ついて来るな」と言い重ねようとしたが、喉元まで上がってきていた言葉は声にはならなかった。
 彼が口を開くよりも一拍早くに、トールが二人に話しかけていた。
「ナルヴィ、ナリ。マグニ達が一緒に遊びたいと言っていたぞ。家にいるから、よかったら相手をしてやってはくれないか」
「ああ、ちょうどいいじゃないか。どうせ家に帰ってもやることはないんだろう? 遊びに行ってこいよ」
 発しようとしていた台詞と表情を一瞬の間に変化させて、ロキが腰の高さから見上げてくる二つの視線にトールの提案をおす。
 ナルヴィとナリは少しの躊躇いの末、無言でロキの服から手を放した。
「……ねぇ」
「お父さん……」
 囁くようにロキを呼んだ子供達からは、つい先程までの駄々っ子の姿はどこにもなかった。
「ぼくたちが帰ったときに……」
「ちゃんと、家にいてね……?」
 うつむきがちに小さな声でそう言うと、ナルヴィとナリは返事を待たずに背を向けて、金色の髪を揺らしながらトールの館のほうに走って行った。
「………」
 子供達の言いようにロキは微かに眉をひそめはしたが、言葉を投げかけることも追うこともしなかった。
 視界から小さな二つの背中が消えるまで見送ると、ロキはトールをうながして、話をするために場所を変えることにした。
 どことなくぎこちない沈黙を漂わせて二人が足を運んだ先は、居住区から離れたところに位置する小高い緑の丘だった。短い草と申し訳程度の常緑樹が生えたそこは、晴天の昼下がりにも関わらず、二人の他に人影はなかった。
 トールが真摯な眼差しでロキを見据えて、話を切り出した。
「ロキ、おまえに聞きたいことがある」
「なんだよ」
「おまえ達に一体何があったんだ? シギュンはどうしたんだ?」
(ああ、やっぱりそれか……)
 無表情を装いたがった意識に反して、ロキの顔が苦虫を噛みつぶしたようなそれに変わる。
 自分にしたい話とやらがそのことではないかと予想はしていたが、実際になってみるとやはり頭が痛かった。
 しかし、煩わしさを覚えるとともに、相手の台詞からロキはあることを確信した。
(たった数日なのに、もうシギュンのことが知られてやがる。……たくっ、あいつもどうせ他の奴らに何も言わない気なら、箝口令でも敷いておけよ)
 面倒な状況に立たされて、ロキが八つ当たり気味にこの場にはいない隻眼の男に向かって胸中で毒づいた。
 ロキとシギュンの身に起きた出来事について、オーディンは公にはしなかった。ロキ自身も、必要があると判断した人物以外には一言も話していない。だがそれでも、シギュンが臥せっていることは関わっていない者達にもすでに知れ渡っているようだ。
 『なぜ』や『誰が』とは、ロキは思わなかった。遅かれ早かれ、シギュンの不調については周囲に知られるだろうと予測していたからだ。そして、そうなったときに自分に降りかかるであろう出来事も。
 どうせ想像したことが現実になるのなら、嬉しくなるようなことを現実化してほしいものだ。
 目の前の相手をとらえる碧眼がわずかに真剣な光をおびる。
 長い付き合いからロキにはわかっていた。トールは興味からではなく、心配の気持ちから訊ねてきている。ロキが真実を答えたら、それをいたずらに吹聴するようなことはしないだろう。むしろ、解決に手を貸そうとするだろう。ただロキのために。
 だが、今のロキにとってはそれこそ必要なかった。彼の中であの出来事についての答えは、数日前から決まっていた。
 ――誰であろうと、話すことは何もない。
「何があったって? さあな」
「ロキっ……」
 緊張と重みを含む嫌な沈黙を破ったのがひどく適当な返事で、トールの声に苛立ちが宿ったが、普段のような怒声は響かなかった。怒りやすいトールにしては珍しく、込み上げる激情を胸の奥に呑み込んで、しばし思案するように黙した。
 改めて開いた口から発せられたのは、ロキの反応を探るような台詞だった。
「……シギュンやおまえについて、妙な噂が立っている」
「そうか」
 短く返したロキの口調は、まるで他人の話題を聞いているかのように軽かった。
 実際、ロキにとって噂なんてどうでもよかった。自分が絡めば黒い噂の一つや二つ出てくるのは当たり前だと、とうの昔に開き直っているからだ。いちいち気にしていては身が持たない。どんな話が囁かれているのかにも興味はない。
 だが、トールにしてみれば、耳にした噂の真偽とそれにたいしてのロキの態度は我慢ならないものらしかった。表情がやや険しくなり、声色には責めるような響きが混ざる。
「ロキ、どうして何も話さない? シギュンは――」
「話すつもりがないからに決まっているだろう」
 遮ったロキの声が、この会話が始まってから最も低く重みを持っているもので、トールは続くはずだった言葉を失って軽く目を瞠った。
 驚きと惑いから呆けるトールに、ロキは容赦なく続ける。
「トール、はっきりと言っておく。俺がおまえに話すことは何もない。知りたいことがあるのなら、勝手に調べればいい。噂を信じるも信じないも、自由にすればいい。俺のことはしばらく放っておいてくれ。それじゃあな」
 たたみかけるように一方的にそう告げると、ロキは相手の反応を待たずにさっさと踵を返した。
 言われた通りにしたのか、それとも別の理由からか。足早に去りゆく彼をトールは止めようとはせず、後ろ姿をただ黙って見つめているだけだった。