序章のはじまり[ロキ編]5


(……だめだ。やっぱり、わからない)
 悔しげに息を吐いて、ロキは自室の寝台に仰向けに寝転がった。
 トールと話をした日を境に、ロキは一日の大半を独りで過ごすようになった。彼が意図的に他人との接触を避けているのは、シギュンが倒れた理由を訊ねられたくないからだ。今のところ、エイルとオーディンの他には誰にも話していない。自分の息子達にも話すつもりはなかった。ましてや真実に至っては、誰にも口を割らないと固く決めている。
 ――そうだ、復讐だ。全てを狂わせたおまえへのな、ロキ。
 天井を見るともなしに見ていると、ミッドガルドの崖の上で去り際に放たれた一言が、胸のひりつきとともによみがえってきた。
 独りになる度にロキの思考を占めるのは、己の実兄であり、あの出来事を引き起こした張本人である、ビューレイストのことだった。
 縁を切ったはずの彼が今頃になってどうして自分の前に現れたのか。『復讐』と口走った彼の真意は何なのか。
 いくら考えても、ロキには答えらしいものを見つけられなかった。唯一わかっていることは、『復讐』の仕打ちが直接自分にではなく、シギュンを通して間接的に行われたということだけだ。
(……おかしい。あれは、どういうことだ?)
 ふと引っかかるものを感じて、ロキは顔をしかめた。
 進展のなさに嫌になってついさっき考えるのを放り出したはずなのに、不意によみがえった言葉に引きずられて、ロキは再び思考を始めていた。手がかりを探して、未だ色褪せることのない苦い記憶を思い返しているうちに、新たな疑問がわいてきた。
(あの魔術……あいつは、あんなにも魔術の素養があったのか?)
 悪夢にも似た場面がロキの脳裏に鮮明に浮かび上がる。遠く離れた場所から、空間の一部を切り離して、そこに己の思念体を送り、相手に影響を与える――そんなことをたしかに楽々とやってのけていた。
 ビューレイストが使った魔術のことを今になって冷静にとらえてみると、妙な感じがしてならなかった。彼を含めた家族と別れたのは幼いときで、すでに長い時間が経過しているとはいえ、何かが引っかかる。それは、ビューレイストが魔術と縁がなさそうだと思っていたから抱く、ささいな違和感なのだろうか。それとも、あれほど高度な魔術を扱う巨人族をあまり目にしたことがないために感じる、驚きからなのだろうか。
 ――巨人と魔術。
(そういえば、前にウルが変なことを言っていたな……)
 頭に浮かんだ二つの単語に、ロキが弓神との出来事を思い出す。
 それがいつのことなのか明確には覚えていないが、強制的に相手をさせられた手合せの最中にウルが巨人と魔術について喋っていた。具体的な内容は、巨人族でも魔術が使えるのは当たり前というもので、どうして突然そんなことをウルが言ったのかは今もわからない。ただそのときの弓神は普段の楽観的な彼とは違っていてどこか冷ややかで、ロキは得体の知れない恐怖を感じた。
 ここでその出来事を思い出したということは、今回のことと何か関係があるのだろうか。
 ロキは考えたが、混ざり合い生まれるものは何もなく、十分もしないうちにその話題を思考から切り捨てた。
 再びビューレイストと魔術について考えるが、これにも答えどころか推測にすらたどり着かなかった。
(……やっぱり、あいつに会って確かめるしかないか)
 考えているだけでは埒があかない。……シギュンのこともある。危険かもしれないが、ビューレイストと直接対峙して問い質すしか疑問に答えを出す方法はないか。
 そこまで考えて、ロキは表情を暗くした。思考の隙間から己の現状が差し入ってきて、今の自分にはそれすらも難しいことに気がついたのだ。
 ロキの罰は続いている。自由に出入りできるようになるまで残りどれくらいかと計算すると、まだ半月以上はあった。
「くそ……」
 もどかしさと苛立ちからロキは悪態を吐く。
 一瞬、虚言を弄してでも外出の許可を得えようかと思ったが、すぐに却下した。どうせあの目敏い主神のことだ、言ったことが本当かどうか大鴉や玉座で監視するに違いない。
(待つしかない……のか)
 己の無力さにひどい焦燥を感じて、思考がかき乱れる。熱をおびた感情が腹の底からふつふつとわいてくるが、そのやり場はどこにもない。
 むしゃくしゃとする気分に、ロキは頭の中を一旦空にすることにした。片腕を枕代わりにして、横向きになって目を閉じる。視界が暗転するだけで、高ぶった感情が幾分か落ち着いた。眠ることを強く意識しなくても、思考は自然と暗闇に溶けていく。
 だが、忍び寄ってきた睡魔が彼を捕らえることはできなかった。
 突然、慌ただしい音が闇の中に響いてきて、ロキの意識は強制的に現実へ引き戻された。
「お父さん!」
 礼儀というには乱暴で回数の少ない扉を叩く音が響いた直後、返事を待たずに高い声音とともに室内に入ってきたのは、息子のナルヴィだった。
 心地よい静寂を破られたロキは訝しげな表情を作って、どたばたとやって来た来訪者に気だるそうに碧色の瞳を向けた。
「なんだよ、うるさい……」
「ヘイムダル神がアースガルドの出入り口までお父さんに来てほしいって! お客さんだって!」
「……はっ?」
 ロキの口から気の抜けた声がこぼれた。耳に届いた台詞があまりにも珍しいもので、内容を理解した途端、聞き間違えたのかと思ったのだ。
「だーかーら! ヘイムダル神から、お父さんにお客さんが来たからアースガルドの出入り口まで来てほしいって、さっき伝言がきたの!」
 父親の呆けた反応を聞き逃したと取ったのか、ナルヴィが先よりも声量を大きくして同じ内容を繰り返す。
「お父さん、聞いてる!?」
 五歩ほどの距離をおいて放たれる耳に響く大声に、ロキは顔を歪めて大儀そうに体を起こした。眠いせいか驚きのせいか、思考はまだ動きが鈍かった。
「ああ、わかったわかった……。聞こえてるよ」
「早く行かないと怒られちゃうよ!」
「はいはい」
「すっぽかしちゃだめだからね!」
「……わかってるって」
「寄り道もだめだよ! すぐに行くんだよ!……もうっ、お母さんがいないと本当にお父さんはだめなんだから!」
「………」
 頬を膨らませて、どちらが子か親かわからない言葉を連発して部屋から出て行くナルヴィを、ロキは何とも言えない表情で見送った。
 シギュンが倒れてから数日の間、子供達はそろって暗く沈んでいたのに、何があったのか、気づいたら普段と変わらないうるささに戻っていた。その変わり身ぶりに、ロキは面倒くさいやらどこかほっとしたような、なんだかすっきりとしない気持ちを感じ、ため息を一つ吐いて寝台から降りる。
(客か……)
 ヘイムダルからの呼び出しも、客が来るということも、ロキにとっては稀有なことだ。好奇心よりも嫌な予感に近いものを覚えながら、ロキは卓に置いていた短剣を腰の定位置につけて、簡単に身支度を整えると家を出た。
 知り合いに会わないように注意しながら、足早にアースガルドの出入り口へ向かう。
 幸いにも道中で面倒事は起こらず、ロキの視界に生真面目な見張り番と客だという来訪者の姿が入ってきた。
 彼らの容姿がはっきりととらえられるようになったとき、不意にロキは足を止めた。意識的にではなく無意識に立ち止まっていた。
「ロキ?」
 会話をするにはまだ遠い位置で足を止めたロキに、ヘイムダルが怪訝そうに声をかける。
 だが、ロキは応えられなかった。彼の意識は見張り番よりもその奥にいる来訪者に奪われていた。
 見間違い……ではない。眼前の事実が脳に染みてくると、心臓が早鐘のように打ち始める。血の巡りが激しくなっているのに、体は逆に冷えてくる。
(嘘、だろ……?)
 驚きと戸惑いと恐怖に、ロキは頭に浮かんだ名前をつぶやきそうになったが、ヘイムダルのことを思い出して寸前で止まった。
 激しく渦巻く感情に歪めてしまった顔を引き締めて、ロキは前へと再び歩み出す。
「ロキ……おまえに客だ」
 隣までやって来たロキにそう告げたヘイムダルの目つきと物言いは、彼の異変を察知してか、どこか探るようだった。
「話があるらしいが、用件はおまえにしか話せないという。素性がわからない者を敷地内に入れるわけにはいかない。外で話してもらえるか」
「ああ」
 会話の始終ロキは碧眼を来訪者に向けたままで、ヘイムダルには感情の薄い返事だけすると、わずかに焦った足取りでアースガルドの外に出た。
 ヘイムダルからできるだけ離れたいと思い、来訪者とロキは虹の橋ビフレストの手前まで足を進めた。振り返らなくても、自分達のことを見張り番の深紫の瞳が見据えていることをロキはわかっていた。
 向き合う形で立ち止まり、ロキは硬い表情で己の客をまっすぐに見つめた。何度も考えていた数々の疑問は、相手の突然の来訪の衝撃からとっさに出てこなかった。
「……こんなところまで、何しに来たんだ」
 ロキのこわばった声に、来訪者が緑色の瞳を愉快げに細める。あのときと同じように、その口元には不快な笑みが浮かんでいた。
 いつもよりも冷たさを含んだ風が、静かに二人の黒髪を揺らしていく。
「ロキ」
 耳に届いた声音は決して大声ではないのに、ロキは頭が微かに痺れるのを感じた。それが眼前に立つ来訪者――ビューレイストによる魔術だとわかるのに、時間はかからなかった。
「あの女を助けたいか?」
 相手が指し示す人物がシギュンだということを、訊ねなくてもロキにはわかった。だが、いきなりの問いの真意がさっぱり察せられず、顔をしかめて聞き返す。
「どういうことだ……ビューレイスト」
 一瞬悩んだが、ロキはその名前を口にすることにした。
 今の二人の会話は、無関係の者には聞かれないように魔術によって歪められている。もしもヘイムダルが耳を傾けていても、本当の会話を聞くことはできないようになっているのだ。
 互いの声は普通に話しているときとは違い、妙な反響をともなって耳に届く。
「取引をしないか、ロキ。おまえが協力してくれたら、あの女を助ける方法を教えてやる。どうだ?」
「……何を協力しろというんだ」
 うかがうようにビューレイストを見据えて、ロキが慎重に聞き返す。
 相手の言葉を信じたわけではないが、あっさり断ってこの邂逅を終わらせるわけにはいかなかった。ビューレイストの真意は何にせよ、もう一度会って話をしたいと思っていたロキにとって、これは絶好の機会。今を逃したら、次に顔を会わせられるのは最低でも半月以上はかかるだろう。
 ロキの余裕のない胸中を読んだのか、ビューレイストが笑みを深くする。
「今ここで、ヘイムダルを気絶させろ」
 告げられた協力の内容に、ロキは目を瞠った。
 ろくでもないことを求められるとは思っていたが、まさかヘイムダルに手を出せとは……しかも、今。そんなことをして、一体何をするつもりなのか。
 驚きを隠せないロキに、ビューレイストはまるでちょっとしたお使いを頼むかのように軽い調子で言葉を続ける。
「ロキ、おまえならそれぐらいできるだろう?」
「……ああ。だが、俺から一つ条件を追加したい」
「なんだ」
 相手の描く通りにだけ事を進めさせはしない。その思いから、ロキは思考を鈍らせる戸惑いや驚きを己の中から廃して、瞳と声と表情に鋭さを宿して言い放った。
「おまえに聞きたいことがある。ビューレイスト、俺の質問に答えろ」
 一言前までとは一転して他者を圧するような気配をまとった彼に、しかし、ビューレイストは少しも揺るがない。それどころか暗い笑い声を立てる。
「いいだろう。ただし、おまえが協力をした後にな」
「………」
「不満か? 俺は長くここでおまえと喋っていたくはないんだ。おまえだってそうだろう?」
 見透かしたように言うビューレイストに、ロキは苦々しげに顔を歪めながらも、否定することはできなかった。あまり時間がかかれば、話が聞こえていないとはいえ、こちらの様子を見ているだろうヘイムダルの抱く疑いが深くなる。
「……協力したら、シギュンを救う方法と俺の疑問に答えるという言葉に嘘はないな?」
「どこぞの誰かと違って、俺は簡単に捨てられるような安い誇りは持ち合わせていない」
「……わかった」
 挟まれた軽口は無視して返事をすると、ロキは心を鎮めるように一つ息を吐いてから、背後を振り返った。ヘイムダルを見た彼に、噛みつきそうな刺々しい雰囲気はすでにない。
「しくじるなよ」
 愉快げな響きを含んだ台詞を背中で聞き流しながら、ロキは独り、アースガルドのほうへ足を進める。
 言われた通りに、ヘイムダルを気絶させるつもりだった。この状況下で己のためにとれる行動はそれしかないと、ロキは相手とのやりとりの末にそう結論を出した。
 見張り番を気絶させてビューレイストが何をするつもりかは知らない。だが、たとえ不意を突かれて攻め込まれたとしてもアース神族がそう易々と屈することはないだろうと、確信に近いものをロキは感じていた。
 それにロキもただ単純にヘイムダルを気絶させようとは考えていなかった。もしものことがあったときのために、すぐに起こして使い物になるように魔術で意識を奪おうと画策していた。
「ロキ、話は終わったのか」
 戻ってきたロキにヘイムダルが声をかける。
 だが、ロキは無言のまま、アースガルドには足を踏み入れず、彼の手前で立ち止まった。
「ロキ?」
 普段なら苛立つような台詞を吐くか、相手をするのも面倒だというようにさっさと通り過ぎて行くのに、対峙した状態で無表情に見つめてくるだけのロキに、ヘイムダルが怪訝な顔を作る。
「おい、どうし――」
 ヘイムダルの言葉の語尾が不自然に途切れた。
 二人の間に肉体を打つ音が鈍く響く。
 ロキに向けられていた深紫の瞳が驚きに見開かれ、一瞬の後に、険しさを含んで半眼に変わった。
「何のつもりだ、ロキ」
 ヘイムダルが自身の片手で防いだもの――自分に向かって突き出されたロキの拳を一瞥して、低い声で問う。
「ヘイムダル」
 ロキが口にしたのは答えではなく名前だった。
 だが、その声音には感情がないに等しく、すぐ近くで発せられているのに妙に聞き取りづらかった。
 その理由をヘイムダルはすぐに悟り、とっさにロキから距離をおこうとしたが、放した腕をロキによって強くつかまれた。振り払おうとする彼の耳に、頭の芯に響くような低い旋律が聞こえてくる。
 どっ、とヘイムダルの心臓が一度大きく跳ね上がった。
「っ……」
 深い紫の双眸が瞠目して、ふっとそこから意識の光が消える。
 ヘイムダルはくぐもった小さなうめき声とともに地面に崩れ落ちた。
「………」
 力なく横たわった彼が起き上がる気配はない。
 思惑通りにヘイムダルが気絶したのを見て取って、ロキはビューレイストを振り返った。
 そのつもりだった。
(!? しまっ――)
 彼の意思は形にはならず、突然、ひどい虚脱感を全身に覚えた。
 ロキが己の身の危険を察知したときにはすでに遅かった。
 肉体の感覚がなくなると同時に、視界が真っ黒に染まる。
 抵抗らしい抵抗ができないまま、ロキの意識は闇の底に沈んでいった。


 目覚めたロキが最初にとらえたのは、『黒』だった。質感のない、のっぺりとした黒色。
 彼の視界いっぱいに、どこまでも続く果てしない黒が、静寂とともに広がっていた。
(……ここは……俺は……?)
「ロキ」
 覚めたばかりで動きの鈍い頭に、聞き覚えのある声音が響いてきた。
 自分の名前を呼んだ人物が誰であるのか。
 気づいた途端、霞がかっていたロキの思考が一気に晴れた。目覚める前の出来事が脳裏を駆け抜けて、恐怖とも怒りともつかない大きな感情がわき上がってきた。
「ビューレイスト……!」
 低い声音でつぶやいて、ロキはとっさに彼の姿を探そうとした。
 しかし、視界を転じようとして、己の身に違和感を覚えた。
「な……あ……?」
 驚きがうまく言葉にならなかった。
 頭を動かそうとして、ロキは今の自分に肉体の感覚がないことに気がついた。四肢だけではない。心臓の鼓動も、その位置もわからない。どんな体勢でここにいるのかさえ把握できない。
 困惑するロキに、どこからともなく再びビューレイストの声が聞こえてくる。
「約束通り協力してくれたおまえに礼を言おう、ロキ。おかげで、思っていた以上に簡単に事を運ぶことができた」
 内容とは裏腹に、そこに感謝の情なんてものは微塵も感じられなかった。
 だが、そんな嘲りを含んだビューレイストの言葉に、ロキはあることを思い出して、苛立つどころか混乱しかけていた思考に平静さを取り戻した。
 彼の脳裏に浮かぶのは、気絶したヘイムダルの姿とその直後に己の身に起きたこと。
「……ビューレイスト。約束を違える気か」
 頭の中の像と現状に異を感じ、憎々しげにロキが言い放つと、短い嘲笑を挟んでビューレイストが応えた。
「約束を違える? まさか。ヨツンの誇りにかけてそんなことはしない。俺は約束した通り、あの女を助ける方法とおまえの問いに答える気でいる」
「じゃあ、これはどういうことだ」
「ロキ。俺がおまえとかわした約束には、こういうことはしないという内容が含まれていたか?」
「っ……」
 声だけで相手がどんな表情をしているのか想像できたが、ロキは何も言い返せなかった。
 ビューレイストの言ったことは正しい。約束を守った上で相手を陥れる、それは駆け引きを行う者なら知っていて当然のやり口だ。自分もアース神族になる前から知り、身につけたはずなのに、どうして忘れてしまっていたのか。
 悔しさから押し黙ったロキに、ビューレイストが容赦なく蔑みの言葉を吐き出す。
「家を出て行ってからのおまえの話は色々と耳にしたが、どうやら愚か者であることは昔と変わっていないようだな。いや、むしろ神となって退化したか。ロキ。おまえは今も昔も俺達にとっては汚点以外の何ものでもない。あのとき……ヘルブリンディがおまえに両目を奪われたあのときに、家族の縁を切るなんて甘いものではなく、その命で償わせるべきだった。今になって悔やむよ。おまえをあそこで殺しておかなかったことをな……!」
(……そういうことか)
 徐々に熱をおびて震えていく相手の声とは対照的に、ロキの心中は聞けば聞くほど妙に冷静になっていった。そして、相手の台詞から、ロキは抱いていた疑問の答えを悟った。
 崖の上でビューレイストが言い放った『復讐』は、家族に害を為した、末弟の自分にたいする強い憎悪からの言葉だった。
 今までのことは全て、彼が憎むべき相手への恨みを晴らすためにやったことで、次にするのはその相手を死に至らしめることか。
 ――本当に?
 不意にロキの中で、浮かんだ考えにたいしての疑問の声が上がった。
 ――本当に、それがこんなことをした動機なのか?
 自分が家を出て行ってから、家族に何があったかは知らない。だが、他の巨人や神、人間を知った今になって考えると、あの家族には誇りや聡明さがあったように思える。一時の感情で事の全てを決めてしまわない、慎重さと賢さが……。なのに今回、ビューレイストがしたことは大事で、しかも暴挙に近い。一歩間違えれば自分自身だけではなく、自分の周囲の者さえ危険に陥れることになる。そんなことをするなんて、昔の彼からは考えられない。
 ――何かおかしい。語られた言葉に……いや、ビューレイストの言動そのものに、違和感が拭えない。
 ここにきて、ロキが崖での再会からなんとなく感じていた謎が大きく明確なものになる。
「ビューレイスト、おまえに何があった」
「……それが、俺に質問したいことなのか? ロキ」
 妙な間をおいて返されたビューレイストの声からは先までの熱っぽさは消え、代わりに怪訝な感情が宿っていた。
 本能が囁く疑問を、ロキは静かな口調で言葉にする。
「ミッドガルドで会ったときから思っていた。今のおまえは昔に俺が見ていたビューレイストとは違う。一体何があった。何がおまえをこんなことに駆り立てたんだ?」
 ロキの声が消えた黒色の世界に、愉快げだが決して聞く者に楽しさを与えない笑い声が響く。
 ひとしきりの嘲笑の後、ビューレイストはおかしくてたまらないといった調子で問いに答えた。
「まるで俺が別人になったとでも言いたげだな。何があったかって? 何もないよ。俺は昔と何も変わってなどいない。変わったのはおまえのほうだろう?」
 最後の言葉がさすのは、ロキが巨人族を捨ててアース神族に己の身を置く場所を変えたことについてだろう。
 挑発じみたその言葉にロキは食いつかなかった。
「なら、あの魔術はなんだ? あんな高度な魔術……どうしておまえが使える?」
「さっきから妙なことばかり言うな。俺が魔術を使えることがそんなにおかしいのか? それとも、巨人が魔術を使ってはいけないとでも言いたいのか」
「違う。だが――」
 不意にロキは声をつまらせた。
(……なんだ、これ……)
 肉体の感覚があるときなら、片手で心臓の位置をおさえていただろう。言葉の途中で、ロキはひどい圧迫感に襲われた。恐怖を覚えるほどの苦しさに意識が乱されて、声を発することができない。
「どうやらこれ以上は限界のようだな……。ロキ、最後にもう一つの約束の、あの女を助ける方法を教えよう」
 ロキの身に起きた異常の理由を知っているのか、そう言ったビューレイストに、突然黙り込んだ彼に不審を抱いた様子はなかった。
「一度しか言わないからよく聞いておけ。『始祖への手向け草』を与えろ。そうすれば、女は助かる」
(始祖への……手向け草……)
 不調でぼんやりとする思考をロキは必死に働かせる。
 ビューレイストが言ったそれには、たしかに聞き覚えがあった。しかし、どんなものだったのかはひどい息苦しさに邪魔されてうまく思い出せなかった。
「これで俺も約束は果たした。そろそろ会話はしまいにしようか」
 終わりを示す言葉に、ロキは己の死を強く意識した。
(……まずい……)
 寒気を感じる。焦る思いとは逆に、思考の動きは鈍くなっていく。
 ビューレイストの暗い声音が、朗々とその場に響き渡った。
「おまえにはさんざん苦しめられた。ただでは死なせはしない。せいぜい苦痛に喘ぎ、無様にあがいて、ヘルヘイムに堕ちるがいい。――それじゃあな、ロキ」
 言い放たれた言葉の意味をロキが理解する前に、目の前の黒が音もなく割れた。
 黒は視界の中央から外側へと一斉に退いていき、代わりに現れたのは灰色――硬質さをもった、ところどころ濃淡をおびた濁った色だった。
(……今度は……なんだ……)
 荒く呼吸しながら、今の新たな状況についてロキは考える。考えを巡らしていくうちに、彼は視界にあるのが石造りの天井であることに気がついた。
「ここ、……っ!」
 思ったことを言い切る前にロキは激しく咳き込んだ。反射的に右手で口をおおって、横たわる体をくの字に曲げる。
 そこで、ロキははっとした。
(体が……ある)
 目の高さまで持ち上げた手のひらがたしかに視界に映ったことに、心臓の鼓動が己の内側から聞こえることに、ロキは驚き、そして安堵した。
 どうやらここは先程までの奇妙な空間とは違うらしい。
 そもそも、あれはなんだったのか。夢だったのだろうか。
(そういえば、もう苦しくないな……)
 乾いた咳をおさめ、乱れた呼吸を整えている間、ロキは真新しい記憶を回想する。
 ビューレイストとの会話も、抱いた感情も、鮮明によみがえってきた。すぐに意識からほどけて消えていく一時の空想とは違う。
 ということは、あれも魔術か。
(……それで、ここはどこなんだ?)
 冷気をはらんだ石の床から、ロキがゆっくりと上半身を起こす。なぜか激しく動いた後のように全身が重く、やや気だるかった。
 己の現状を把握しようと、ロキは意識を周囲に向けた。だが、視線を辺りに一巡りもさせないうちに、ふと妙な感情がわいてきた。
(ここを……知っている……?)
 どこか懐かしいような気がした。
 わき上がってきた感情をもっと明確にしたくて、ロキは目の前の景色を見つめ、記憶を掘り返していく。
 視界に映るのはどれも質素なものばかりだった。天井や床や壁は灰色の石造りで、灯りは淡い光を放つ吊り下げ式のものが一つだけ。窓はなく、出入り口だろう木の扉は妙に大きい。肺に落ちる空気は冷たく、微かにかび臭かった。
 飾り気のないそれらに導かれ、脳裏におぼろげに浮かび上がってきたのは、ロキがまだ家を追い出されていない頃の記憶だった。