序章のはじまり[ロキ編]6


 ――そうだ。ここには何度か、父や兄達と一緒に来たことがある。
 遊ぶためか、何かを教えてもらうためか、目的は忘れてしまったが、たしかに昔に足を踏み入れた場所だ。
 自分の傍らにいる誰かが言っていた。ヨツンヘイムにありながら、ここはたとえ霜の巨人族でも容赦なく喰い殺してしまう場所だから気をつけなければいけない、と。まだ幼かった自分はその言葉の意味をよくわかっていなかったが、暗澹とした雰囲気にただならない恐怖を感じていた。
 そういえば、この小屋の近くには大きな森があった。薄暗く不気味で、あの頃の自分は恐くて一人で入ることができなかった。
(『始祖への手向け草』……そうか、あれのことか)
 シギュンを助けるために必要だとビューレイストが言っていた物の正体を、ロキはようやく思い出した。
 『始祖への手向け草』と呼ばれるそれは、ヨツンヘイムにしか生えない植物のことだ。ヨツンの者ならば、一度はそれにまつわる話を聞いたことがある。
 その草は、神によって殺されて世界へと創り変えられた始祖を弔うために、先祖が一本の白木の周りに自分達の血をまいたことで生えてきたものだという。巨人の始祖であるユミルに捧げられた植物だ。
 ロキ自身も、親からその話を聞かされて、実際に現物を目にしたことがあった。
 妙に幻想的な光景だったせいか、ロキはそのときの場面を鮮明に思い出すことができた。
 暗い森の中で一本だけ凛とした気配を宿して立つ、白く細い木。その下に生えた、鴉の羽のように黒い植物が、『始祖への手向け草』だった。
(……皮肉だな)
 自分にはもう必要ないと思っていた過去のことが役に立って、ロキは自嘲気味に唇を歪めた。しかも、それが縁を切った家族絡みの出来事でとは……。
 だが、今は物思いに沈んでいる場合ではない。
 胸中に感じる鬱々としたものを払って、ロキは行動を起こすことにした。体はだるいが、動くのに支障があるほどではない。
 もう一度だけ念のために、ロキは動き回る前に小屋の中を見ておくことにした。
「……あ?」
 始めの確認では見ていなかった己の左側に碧眼を向けたとき、ロキの口から気の抜けた声がこぼれた。何度か瞬きするが、視線の先の人物は彼以外には変わらない。
「ヘイムダル……?」
 壁の近く、瞼を閉じて仰向けに横たわっているのは薄紫色の髪をした若い男――それは、見間違いようもなくヘイムダルだった。名前を呼んでも反応はなかったが、胸は定期的に上下している。眠っている……いや、気を失っているだけなのだろう。
(こいつも連れて来られていたのか)
 ビューレイストは何を考えているのだろうか。ヘイムダルと自分をここに置いて何をする気なのか。そういえば、彼への疑問の多くは結局わからないままに話は終わってしまった。
(とりあえず、起こすか……)
 さすがにこんなところに放置しておくわけにはいかない。ビューレイストのことを考えるのは後にして、ロキはヘイムダルを起こすことにした。いけ好かない相手だが、一緒に行動するのを嫌がっているときではない。
 たいした距離ではないので、ロキは四つん這いで寄って行って、揺り起こそうとヘイムダルに手を伸ばした。
「おい、ヘイム――っ!?」
 不意に、ロキは激しいめまいに襲われた。
 ふっと視界から全ての像が消滅して、目の前が真っ白に染まる。その白に意識が呑み込まれ、自分という存在が消えていくのを感じる。
「――っ!」
 自我が完全になくなってしまう前に、虚ろになっていく思考を必死に働かせて、ロキは一つの言葉を口にした。
 楽器の音色のようなその声が己の耳に届いた瞬間、色と形と感覚が戻ってきた。
「っ、くそ……ビューレイスト……!」
 己の現状を把握して、ロキは憎々しげに悪態を吐いた。
 眼前のヘイムダルに伸ばしたはずの右手を体の後ろから前へと動かして、開いた手のひらに目を落とした。
 考えてはいないのに、たしかに自分の手は腰の短剣を抜こうとしていた。もしも抜かれていたらその刃をどこに向けていたのか。それはすぐにわかった。
 ロキが手から視線を移動させる。ヘイムダルが視界に入った途端、頭の中がざわめいた。熱い衝動が生じ、そのままに肉体が動こうとするのを感じる。
 意思に関係なくわき上がってくるそれは、ヘイムダルを殺してやりたいという殺意だった。
 高ぶった気分をどうにか落ち着けながら、ロキは歯を強く噛み締める。
 ビューレイストが最後に放った言葉の意味が、今ようやくわかった。
 己の手によって起こした最悪の状況の中で死ね、とそういうことなのだろう。
(ふざけるな……)
 ロキは己を律するように、片手で胸元をつかんだ。
 頭の片隅では、先程からずっと凶暴な獣が自分をうるさく喚き立てている。気を抜いたらその吼え声に流されて、自分はヘイムダルを殺してしまうだろう、そうロキは疑いなく思った。
(あいつの思い通りになってたまるか……!)
 瞳の眼光を鋭くして、強く決意する。
 どうにかして、ヘイムダルを殺さずに、この悪趣味な舞台から抜け出さなければならない。できるだけ早く。自分にはまだやらないといけないことが残っているのだから。
 己の内側で渦巻くビューレイストの魔術に抵抗しながら、ロキは脱出するための思考を巡らせた。

   ◆

 ――……かっ!
 何か大きな音が、闇の底に沈んでいたロキの意識を、急速に現実の光の中へと引きずり上げた。
「っ、……う」
 ゆるゆるとロキが瞼を開く。暗闇から一転して、まぶしいぐらいに視界が明るくなった。
 目の前に存在するものが何なのか。
 うまく働かない頭でロキが認識する前に、激しい衝撃が全身を襲った。
 わずかな浮遊感を覚えると同時にロキの視界は再び暗転し、一瞬の空白の後、固い感触と鋭い痛みとともに光が戻ってきた。
「いっ、た……っ!」
「ようやく起きよったか。まったく、相変わらず手間のかかるガキじゃのう」
 全身に走った痛みに思わず声を上げたロキの近くから、何者かがため息混じりの言葉を発した。
 その声音とひどい衝撃によって、寝起きでおぼろげだった意識が覚醒する。光に満ちた視界に映る、ほんのりと朱色をおびた石で造られた内装に、ロキは己の現状を悟った。
(ここは、ムスペルヘイム……。そうか、たしか俺は……)
「おぬし。もう一眠り決め込もうというのなら、今度は踏みつぶすぞ。さっさと起き上がらんか」
「っ……、寝台から俺を落としたのはおまえだろうが……!」
 一言前と同じで労りの欠片もない乱暴な物言いに、ロキは苛立って思わず言い返した。
(くそ……最悪の目覚めだ)
 胸中で悪態を吐きながら、鈍く痛む体でのろのろと床から起き上がる。彼が左手のほうに視線をやれば、自分が寝かされていた寝台を挟んで向こう側に、極彩色の扇を手にしたスルトが温かみのない表情でいすに座っていた。
「わしが呼びかけてやったというのに、さっさと起きぬおぬしが悪い」
「嘘吐け! 明らかに俺が目を開いてから落としてただろう!?」
「なんじゃ、目覚めておったのか? ならば、返事の一つぐらい発してとっとと起きぬか。おぬしは今も昔と変わらず、どんくさい奴じゃのう」
「てめぇ……!」
 苛々が本格的な怒りへと変わり、ロキは飄々と応酬する目の前の人物を一発殴ってやろうと足を動かした。
 だが、三歩も進めないうちに、全身から血が引いていくような嫌な感覚を覚えて、ロキは崩れるように床に膝をついてしまった。
 寒気と吐き気、ひどい不快感が込み上げてくる。
 紅潮した顔を一気に青白く変えたロキに、スルトは淡泊に言い放った。
「シンマラの炎に抵抗するからじゃ。大人しく受け入れておれば、そんな苦しみを感じずにすんだというのに……本当、馬鹿じゃの、おぬしは」
「う、る……さい!」
 途切れ途切れの悪態が今のロキには精一杯だった。
 じっとしていても気分は良くならない。むしろ、思い出そうとしていないのに、頭の中に過去の出来事が勝手に浮かび上がっては消えていくのを繰り返して、せっかく覚醒した意識が薄れそうになる。ひどい不快感のせいで、四肢に力がうまく入らない。
「情けない奴じゃのう。……ほれ」
 なかなか立ち上がることができない様子のロキに、スルトは呆れたようにつぶやくと懐から何か取り出して、それを彼に向けて放った。
 うつむくロキの視界に落ちてきたのは、薄い白布に包まれた小さなもの。
「薬じゃ。一枚取って、十回ほどゆっくり噛め」
 重い体を引きずるように動かしてロキが包みを開けると、乾燥した深緑色の葉が何枚か重なって入っていた。
 スルトから施しを受けるのは癪に障るが、放っておいてもすぐには回復しそうもないため、しぶしぶロキは葉を口に入れた。
(う……)
 鳥肌が立ちそうなほどの苦みに思わず吐き出しそうになるのをこらえて言われた通りに十回噛むと、床に座り込んだ状態で薬が効いてくるのを待った。
「どうじゃ。体は使いものになりそうか」
「……うるさい」
 軽口で沈黙を破ったスルトに、顔に多少血の気を取り戻したロキがややかすれた声で小さく言い返す。
 三分ほどが経って、全快とはいかないまでも立ち上がって歩けるようにはなった。
 ロキはふらつく足取りで寝台まで行って腰を下ろした。
「……おぬしはずいぶんと、家族のことで苦労しておるようじゃのう」
 不意にぽつりとつぶやかれたその言葉に引っかかるものを感じて、ロキが探るようにスルトを見つめる。
 見返してくる深紅の瞳はどこか愉快げな光を宿していた。
 落ち着きを取り戻したロキの思考は、すぐにあの台詞に潜んだ意味を導き出した。
(こいつ……全部知ってやがる)
 ビューレイストのこと、彼がしたこと、自分がヨツンヘイムの森で何をしていたのか。
 シンマラが放った青い炎によって、スルトはそれらに関しての自分の記憶をすでに知っている。
「スルト、おまえの目的はなんだ。俺をこんなところまで連れて来た挙句、『シンマラの炎』まで使って、何を企んでいる?」
 碧眼を鋭くしてロキが低い声で問うと、スルトは扇で口元をおおったまま飄々と答えた。
「企みも何も、森の中で言ったであろう。わしはおぬしに用があるんじゃ」
「記憶を盗み見てまでする用だって?」
「そうじゃ。……どうやらおぬしは関係なさそうじゃから、そろそろ話してもよいかのう」
 皮肉げな反応を返したロキに、スルトはほとんど独り言じみた言葉を口にすると、扇を閉じて膝上の左手のひらに置いた。
「近頃、ヨツンヘイムで妙な魔術を使う輩が増えておってのう。おぬしへの用とはそれに関することじゃ」
 魔術という単語を耳にした瞬間、ロキの心がざわめいた。脳裏にビューレイストのことが過ぎる。
 スルトは淡々と話を続ける。
「おぬしも知っておろうが、魔術は己が持つ魔力を使って行う術じゃ。ゆえに、微弱ながら魔術には使い手の気配というものが宿る。じゃがここ最近、一部のヨツンの者どもが使う魔術には一様に同じ気配が宿っておるのじゃ。これは普通ではありえぬこと。何か妙なことが起きているとしか思えぬ。わしは今そのことについて調査しておるのじゃ。……ああ、そういえば、森の中で会ったあやつ……おぬしの兄だったか? あやつがわしに使った術もそうじゃったのう」
「あいつはもう俺の兄じゃない!」
 その言葉に驚いたのは、発したロキ自身だった。眼前のスルトは微動だにしていない。
 ロキは叫んだ自分をごまかすように、慌てて別の言葉を口にした。
「……自分の世界にしか関心のなかったはずのおまえが、ヨツンヘイムのことを気にかけるなんて、ずいぶんとお節介になったんだな」
「取り乱したくせに何を偉そうなことを言うておる。わしが愛しておるのは今も昔もここだけじゃ。他の世界がどうなろうと知ったことではない」
「じゃあ」
「――戦争が起きるかもしれぬ」
 ひどく危険な単語を耳にしてロキが目を見開く。
 驚きに声を失った彼とは対照的に、発言者のスルトは軽い調子で息を吐いた。
「まぁ、今のところは予測の域を出ぬがな。……じゃが、力が生じるところにまた争いも生じるもの。それに今のヨツンヘイムは統率者であったスリュムを失って不安定じゃ。わしらとの関係もどちらかというと良好とは言えぬ。ムスペルヘイムに枝葉をのばす危険のあるものは芽のうちに早めに摘んでおこうと、そういうわけじゃ」
 そこまで聞いて、ロキは自分への用というものが何かを直感した。
「なるほど。つまり、おまえはムスペルヘイムのために、俺にその妙な魔術を使う奴らについて調べろっていうのか。……だが、あいにくと俺は今は巨人族じゃなくアース神族だ。そんな用――」
「阿呆。いつわしがそんなことを言った。早とちりするではない、馬鹿者が」
 容赦のない冷ややかな言葉に、ロキがややむっとした顔をする。
「なら、俺に用ってなんだよ」
「わしらとアース神族の間を取り持て」
 あっさりとした口調で告げられた用事に、ロキは一瞬耳を疑った。
 ムスペルとアースの間を……自分が仲立ちしろというのか。
 ――どうしてそういう話になる?
「具体的には、おぬしにはオーディンに先のことを伝え、わしらと協力して事に当たることを取りつけてもらいたい。わしが思うに、アースにとっても悪い話ではなかろう。ヨツンが争いを起こすとき、最も狙われる可能性が高いのはおぬしらじゃ。これは一方的な協力要請ではない、互いのための提案じゃ」
 ロキの困惑を読み取ったかのように、スルトが補足する。
 しかし、ロキにはまだいまひとつ腑に落ちなかった。妙に落ち着かない心で疑問を口にする。
「おまえが俺にさせたいことの内容はわかったが……どうしておまえ達で何とかしないんだ? まだ芽なら、アース神族と協力しなくても何とかできるんじゃないのか」
「阿呆。難しいから言うておるのじゃ。それぐらい察しんか」
 スルトのにべもない態度に、ロキは苛立った。
「それが用を任せようとしている者にたいしての態度か!」
「助けてやった恩を仇で返したおぬしが何を言うておる」
 スルトはすげなく言い返したが、未だ納得しようとしないロキを見て、面倒そうに息を一つ吐くと言葉を重ねた。
「今回のヨツンでの異常についてはまだ公にはしておらぬのじゃ。ムスペルの住人でこのことを知っておるのは、わしと一握りの者のみ。全貌がわからぬゆえ、安易に伝えられぬのじゃ。誰かどこで繋がっているかわからぬからな」
 最後の言葉にロキははっとした。あの忌まわしい青い炎を思い出す。
「だから……俺に『シンマラの炎』をかけたのか……?」
 つぶやいた彼に、スルトはうなずいた。
「そうじゃ。用を頼もうとしている人物が調査対象と繋がっておったらもともこうもないからのう。念のためじゃ。……さてロキ。これで納得したか。つまりは人手不足じゃ。現時点でこちらの人員は増やせられぬし、絶対的に足りぬ。アースはわしらよりもヨツンと仲が良くない。ヨツンの者と繋がっている可能性は低いであろう」
 そこでスルトが言葉を切った。
 見据えてくる深紅の瞳が、「納得したのならさっさと引き受けろ」と言っているのをロキは感じた。
(俺がアースとムスペルを……ね……)
 しばし黙考した後に、ロキはきっぱりと返事をした。
「断る」
「……おぬし、本気か」
 そう言ったスルトの声は先程までと比べて低く、その双眸が不機嫌そうに微かに細まる。
 だがロキは怯むことなく、さらに拒否を示した。
「ああ。大体、どうして俺がそんな役割を引き受けないといけないんだ。自分達でやればいいだろう」
「阿呆」
「てめぇ……っ」
 間髪入れずに返された罵りに、ロキの胸中に溜まった苛立ちが沸点を超えそうになる。
 しかし、スルトは相手の機嫌などおかまいなしで小馬鹿にしたように言う。
「何を聞いておったんじゃ。言ったであろう、公にはしておらぬ、と。わしや他の者がアース神族と接触したら目立ってしまうではないか」
「……俺をムスペルヘイムに連れて来るのは目立っていないのか」
「おぬしは前にここに住んでおったからのう。わしが連れて来たところで怪しむ者はおらん。理由は何とでもつけられるしのう。……それに、だからこそわしは適役だと思っておぬしを選んだのじゃ。おぬしはそれなりにムスペルのことも知っておるから、オーディンを説得しやすいじゃろう」
 そう言われてもロキの心はちっとも動かなかった。
 そんな面倒なことを引き受けても自分には何の利もないのだ。場合によっては、ムスペルの回し者だと思われて大変なことにもなりかねない。
 黙してなおも拒否する彼に、スルトが何かひらめいたようにぽつりとつぶやいた。
「……おぬし、原初からムスペルヘイムが存在理由を知りたくはないか?」
「おまえ……それで俺をつっているつもりなのか?」
「なんじゃ、興味がなくなったのか? ここに居たときは鬱陶しいぐらいに探っておったことであろう」
「………」
「まぁ、それでも嫌だというのならしかたがないのう。――おぬしにはここで死んでもらうぞ」
 言うが早いが、スルトが扇の先端をロキに突きつけた。
 突然の展開にロキはぎょっとして叫ぶ。
「なっ、どうしていきなりそうなる!?」
「当然の流れじゃ。ヨツンのことは機密扱い。それを知ったおぬしを帰すことができるはずもなかろう」
 かなり勝手な言い分だと思ったが、ロキは今度は強く言い返せなかった。
 言動からスルトが本気なのを見て取って、顔を青くする。この悪い事態を回避しようと必死で思考を動かして、ロキはなんとか言葉を紡いだ。
「……俺を殺したりなんかしたら、アース神族との関係が悪くなるぞ。そうなったら困るんじゃないのか」
「大丈夫じゃ。こうなったときのための策はすでに考えておる。……おぬし、今は行方不明ということになっておるらしいな?」
 スルトが唇を微かに笑みで歪める。
(こいつ……!)
 胸中でつぶやくだけで、ロキは何も言えなかった。逃げ道を探すが見つけられない。
 深紅の瞳でしかとロキをとらえて、スルトが最後の問いを投げつける。
「選ぶがよい、ロキ。わしの用を引き受けて生きるか、断って死ぬか」
 そんな二者択一、答える側には選択肢がないに等しい。
 だが、ロキは返答を渋っていた。もちろん死にたくない。しかし、まんまと相手の手のひらで踊らされるのも自尊心が許さない。引き受ける以外に道がないのなら、それをする代わりに何か自分が利を得るような条件を提示できないものか。
(そうだ、あいつのことを……)
 ロキの頭の中に浮かんできたのは、ビューレイストのことだった。
 彼についてはスルトも気にしていた。自分はもう一度会って話をしたいと思っている。
 ロキは眼前の扇から意識を外して、鋭さを宿した碧眼でまっすぐスルトだけを見据えて口を開いた。
「わかった。スルト、おまえの用事を引き受ける。だが、代わりにビューレイストのことは俺に任せろ。おまえ、あいつに魔術のことを聞くつもりなんだろう? その役目を俺に譲れ」
「偉そうに言うのう」
「………」
「……まぁ、よかろう」
 わずかな沈黙の後、スルトは承諾するとロキから扇を引いた。
「じゃが、得た情報は一つたりとも漏らすことなくわしに報告せい。よいな」
「ああ」
 命の危機が去り、嫌な緊張が解けたロキが安堵の息を吐く。
 結局落ち着いたこの状況は喜びとは言い難いが、ビューレイストと話せる機会を手に入れたことは大きいだろう。
 ……自分自信を納得させるために、ロキはそう思っておいた。
 満足げな様子でスルトは扇を広げて極彩色の下で、どこか疲れた表情のロキに向かって言う。
「あやつの居場所についてはすでに調べてある。体調が回復次第、おぬしはまずあやつのところへ行け。アースとの取り持ちはその後じゃ」