序章のはじまり[ロキ編]7


 冷たく濁った空を一羽の鷹が滑るように飛翔していく。
 猛禽の姿に変身したロキはビューレイストに会うため、スルトからの情報をもとにヨツンヘイムの上空にいた。
 視野がおおい尽くされるほど巨大な森を眼下に眺めながら、ぼんやりとロキは思う。
(……こっちのほうに来るのは……久しぶり、だな……)
 最後に訪れたのはいつだろうか。ムスペルヘイムから戻ってきたときも、アース神族に仲間入りした後も、この辺りには数えるほどしか足を運んだことがない。
 理由はたぶん、ここからもう少し東に行ったところに、自分の――。
 そこまで考えたとき、ロキは胸中に細い針でつつかれるような不快感を覚えて、慌ててその考えを自分の中から追い払った。
 今は感傷に浸っているときではないと、過去にではなく現在に意識を集中させる。
 これから自分がやろうとしていることは、ぐらついた精神でいけば死ぬ可能性があることなのだ。
 気を引き締め直して、ロキがヨツンヘイムの地を見下ろしていると、ふと視界の中にあるものを見つけた。
(あれは……)
 生い茂る深緑の木々が減少し、そこからきらきらと輝くものが覗いている。時折、緩やかに曲がっては続いている細長いそれは、川だった。
 ロキはその近くの地上の一点を凝視していた。
 ……間違いない。
 森の中を横切る川のそばに探し人の姿があった。
 彼から今度こそ聞き出すことを心の中で誓って、ロキは地上へと降下した。
「――ビューレイスト」
 声が届く距離まで降りたところでロキがその名前を呼ぶと、黒髪を束ねた男は水汲みの手を止めて立ち上がり、怪訝そうに背後を振り返った。
 ロキは十分に間合いを取って、ビューレイストの前に着地した。
 鋭い爪のはえた足が地面に着くと、猛禽の姿は瞬く間に陽炎のように歪んで、長い黒髪の若い男の姿に変わった。
「……ロキ」
 空からの来訪者の正体に、ビューレイストの明るい緑の瞳がたちまち警戒の色をおびる。
 変身を解いたロキは緑みの強い青色の双眸でまっすぐに見返して、短く告げた。
「続きをしに来た」
「続き?」
 訝しげに聞き返したビューレイストに、ロキは無表情に言う。
「スルトに邪魔をされた『殺し合い』の続きだ」
 相手の返事を待たずに、ロキは腰から短剣を引き抜いた。枝葉の間からこぼれ落ちる陽光を受けて、右手に握られた刃が持ち主の眼光と同じ鋭い輝きを放つ。
 一切の迷いが感じられないその様子に、ビューレイストが己の瞳を唇を、暗い笑みに歪めた。
「いいだろう」
 妙に愉快げな返答に続いて、硬質な音がもう一つ川辺に響いた。一振りの剣が、ロキの視界の中で冷たく光る。
 二人は前と同じように睨み合い、互いに機を狙って沈黙した。
 緩やかな川のか細い水音が満ちるその場に、不意に一陣の風が吹いた。
「――…」
 水の音がかき消されるほどの葉擦れの中、唇をほとんど動かさずにロキが何事かつぶやく。あまりにも小さく発せられたそれは、当然森の音にかき消されてしまい、ビューレイストには届かなかった。
 風が去り、森が騒ぐのを止める。宙を舞っていた葉が地へと落ちて、長い黒髪が大きく揺れた。
 ロキが一気に間合いをつめて短剣を振るう。だが、ビューレイストはそれを紙一重でかわして、次を仕掛ける暇を与えない俊敏さで剣を横にないだ。
 ロキは冷静に半歩下がることで反撃を避ける。が、予想していたかのように間をおかず二撃目が繰り出され、今度はかわすことができない。
 とっさにロキは、迫りくる刃を短剣で弾いて防いだ。そして、生じた一瞬のすきに、胴を狙い、躊躇うことなく相手の懐に飛び込んだ。
 銀光がひらめく。
 赤い雫が地面に滴り落ちる。
 だが、ビューレイストは倒れない。それどころか、唇を歪めてにたりと笑った。
 逆に、ロキの表情は曇った。
 短剣が切ったのは胴ではなかった。振るった刃は、ビューレイストの左手によってつかみ止められていた。動かそうとしてもびくともしない。
 はっとして、ロキが柄から手を放して後退する。一瞬後、彼がいたところに銀の一閃が走った。
 ビューレイストは距離を取ったロキを追う代わりに、左手に残されていた短剣を投げ放った。
 風を切って飛んできたそれをロキは軽い身のこなしで避ける。短剣は乾いた音を立てて、後ろにある木の幹に突き刺さった。
「ロキ。おまえは今も昔も、武術で俺に勝てないんだな」
 左手の傷を気にもとめず、ビューレイストがせせら笑う。
 ロキは己の武器を振り返ることもなく、険しい眼差しで相手を見据えたまま、ぽつりとつぶやいた。
「――、――」
 唇から紡ぎ出されたのは、普通の『言葉』ではなかった。
 ロキが発した旋律じみた声を耳にした途端、ビューレイストの表情からは余裕が消え、慌てたように距離をつめた。
「――…」
 相手の重々しい一振りをロキはかわして、音色のような声でさらにつぶやく。
 ビューレイストはまるで彼を黙らせようとするかのように素早く攻撃を重ねる。だが、不意にその動きは鈍くなり、剣はロキをとらえず、地面を突いた。
「……ロキっ」
 ビューレイストが崩れるように片膝をついて、緑の眼で憎々しげにロキを見上げる。その表情と声には苦痛が滲んでいた。
「ビューレイスト」
 無表情に見下ろしながらロキが発したそれは、本来の彼の声音だった。
「今も勝てないのは当たり前だ。俺はおまえに剣で勝つつもりで勝負をしていたわけじゃない」
「……なるほど。最初から……魔術が狙い、か……」
 自嘲的に笑って、ビューレイストが力なく首を垂れる。
 ロキが呪文の最後の一句をぽつりとつぶやくと、二人の周囲の大気だけが動き出した。
 徐々に強く渦巻く大気に落葉や小石が彼らの範囲の外に弾き出されて、内側の木々だけが枝葉を揺らす。しかし、音はしない。
 黒髪と服をなびかせながらロキが、うなだれるビューレイストに向かい真実を問おうと口を開いた。
「っ――!?」
 だが、その唇からこぼれたのは疑問ではなく、小さなうめき声だった。
 鮮血が辺りに飛び散って、大気がぴたりと動きを止める。
 ロキはふらつきながら、二、三歩後ろに下がった。
「……それで、俺を殺さずに何をするのが目的だったんだ?」
 血のついた剣を手にビューレイストがゆらりと立ち上がる。そこに苦しみや痛みの影は一切見受けられなかった。上げた面には暗い笑みが戻っていた。
(嘘、だろ……?)
 切られた胸をおさえるように軽く触れて、ロキは驚きと戸惑いに揺れる瞳でビューレイストを見つめた。
 ロキが使用した魔術は彼が使える中でもそれなりに高度なものだった。それをビューレイストがあの状況から打ち破った挙句、何事もなかったかのようにすぐに動けるようになったことが、ロキには信じられなかった。
 一体どれだけの力を有して……いや、そもそもあんな力を得ることができる何かがヨツンヘイムにあるというのか……?
(どうりで、スルトが危惧するわけだ……)
 傷口は焼けるように熱いのに、体の中心からひどい寒気を感じる。
 内と外からの苦痛に呼吸を荒くするロキに、ビューレイストは冷たい声音で愉しげに言う。
「残念だったな、ロキ。自ら俺のところにやって来た勇気だけは認めてやろう」
 わき起こる悔しさにロキは碧眼を鋭くするが、何も言い返せなかった。返す言葉が浮かんでこない。軽口を叩ける状況ではない。
(まずい、な……)
 現状にロキは強い身の危険を覚えていた。
 胸の傷は臓器には達しなかったとはいえ、軽いとも言い難く、魔力を集めて体の治癒力を高めてはいるが出血はまだおさまっていない。手元に武器はなく、何より相手のあの力を目にした後では、今の自分にはどこにも勝機を見つけられない。
(……まだ、だ)
 それでも諦めて死ぬという選択肢を選ぶつもりは毛頭なく、ロキは背後の木に刺さっている短剣との距離をちらりと確認した。
「さあ、これでしまいにしようじゃないか」
 暗い熱情をたぎらせて、ビューレイストが踏み込んでくる。
 相手に合わせて、ロキも動いた。
 視界の端で無慈悲な銀光がきらめく。ロキは踏み込み様に放たれた斬撃をかわして、胸の傷にかまうことなく、必死に短剣に手を伸ばした。
 ビューレイストはすかさず彼を追って、その背に二撃目を振るおうとする。
 気配を察知して、素早くロキが後ろを振り向く。
 直後、耳をつんざく鋭い高音が森の中に響いた。
 眼前で起きた一瞬の出来事に、ビューレイストが目を瞠る。彼が手にしている剣は中程からなくなっていた。
 間一髪得物を取り戻したロキが、自分に向かって落とされた刃を逆に断ち切ったのだ。
 ロキは荒く息をしながら、微かに痺れの走る手で短剣の柄を強く握り直す。その刃には切れ味と強度を上げるルーン文字が血によって描かれていた。
(いまだ……!)
 ビューレイストが思考と体の動きを鈍らせているうちにたたみかけようと、ロキが足を踏み出す。
「っ……!?」
 だが、負傷している体はそこで限界がきた。
 踏み出した右足が地についた途端、がくんと膝から力が抜けた。意思に反して崩れゆく体をロキはどうにか持ち直そうとするが、気ばかりが焦るだけで四肢は思うように言うことを聞かない。
 そのすきをビューレイストが見逃すはずがなかった。骨ばった手がロキの首を強くつかんで、そのまま勢いよくその細い体を背中から木の幹に叩きつけた。
「が、は……」
 激しい衝撃に、ロキは口からくぐもった声とともに血を吐いた。貫かれるような痛みの他に、背から指の先へひどい痺れが襲ってくる。
(これは……本当にやばい、な……)
 遠いところで理性が己の状況を冷静に分析する。気絶はしなかったが意識は朦朧として、腕を持ち上げる力すらわいてこない。
 揺れる視界の中に、ぎらついた緑色の双眸が見える。ゆらりと射した凍てついた銀色の光が、抗おうとする意思を薄弱にする。
 身動きの取れなくなったロキに、容赦なくビューレイストが折れた刃を振り下ろしにかかった。
 ――己から言い出したことだというのに、無様ですね、ロキ。
 無気力に相手の凶刃を受け入れようとしたロキの頭の中に、冬の早朝のように冷たく、気高さを含んだ声音が響いてきた。
 それが何であるのかロキが答えを出す前に、視界に澄んだ青色が現れる。薄から濃、濃から薄へと不規則に変じて揺れるそれは、彼にも身に覚えがあった。そう、『シンマラの炎』だ。
(どういう……ことだ……?)
 戸惑うロキの目の前で、青い炎が音もなくビューレイストを取り巻いた。
 突然のことにビューレイストが動きを止める。彼は抵抗することも逃げることもできず、振り抜けなかった剣を手から落として、苦しげな声をもらして地面に崩れ落ちた。青い炎はさらに勢力を増して伏した体を包み込む。
 一体何が起きている……シンマラがここにいるのか?
 状況を知ろうとロキが体を動かそうとしたが、なぜか指一本曲げることもできなかった。痛みはほとんど引いたのに全身が鉛のように重い。
(なんだよ、これ……)
 疑問が膨らむが、今のロキには答えを得るどころか探すことすらできない。
 心身にかかる重圧はだんだんと大きくなっていき、ついには目を開けていることもできなくなった。視覚が失われると同時に聴覚も消え、外界の様子が一切わからなくなる。
 真っ黒な無音の空間。取り残された意識もずるずると沈んでいく。ロキに抵抗する力はない。その意思さえわいてこない。
(?……あれ、は……)
 不意に、闇しかないはずのそこに、様々な色と形をもった『像』が浮かんできた。目を開いたわけではない。現に見えてきたそれは、瞼を閉じる前の景色とは異なっていた。
 薄く雲がかかる空の下、わずかな草木しかない、褐色の地面と岩ばかりのそこに一人の人物が立っている。裾の長い黒色の外套を羽織り、目深にフードをかぶっているため、容姿ははっきりとはわからない。唯一あらわになっている鼻から下の肌は白く、薄く笑みを浮かべている唇はやや紫がかっている。
 正面に立つ黒衣の人物が口を開いた。
 ――……でしょう、彼が。……ければ、あなた……あなた達は…………にはならなかった。彼が……、こんなに………なかった。……ければ、全て………はずなのに。……さえ、………ければ。彼を早くに………。
 紡いだ言葉は断片的にしか聞こえず、ロキには何を言っているのかわからなかった。
 黒衣の人物が話し終えると、少しの間をおいてどこからか別の声音が聞こえてきた。
 ――おまえ……を……? 一体……だ?
 それは前の者よりも低い声だったが、内容は同じく不明瞭だった。
 応えるように、像の中の血色の良くない唇が再び動く。
 ――……。……を……でも……。……憎しみ………力を……。
 今度は低い声が響くまでには先程よりも少し時間がかかった。
 ――……おまえは、……だ?
 その言葉にか、黒衣の人物がおもむろに顔を隠していたフードを取り去った。
 淡い光の下にあらわになったのは、どこか硬質さの漂う整った女の顔だった。顎の下で切りそろえられた煙るような灰色の髪に、見つめてくる双眸は星のない闇夜のように黒い。
 顔をさらした黒衣の女が、ロキではない誰かに向かって喋る。
 なぜか今回の言葉ははっきりと聞き取ることができた。
 ――あたしは、鉄の森の魔女、アングルボダ。
 そう言った女は妖艶に微笑して、こちらにいらっしゃいとばかりにしなやかな片手を差し出してきた。
(な、んで……あいつ、が……?)
 像の中の人物にロキは驚き、そして困惑していた。彼にとって彼女は顔見知り以上の知り合いだった。
 しかし、生じた疑問についてロキが深く思考することはできなかった。
 ――さあ、ビューレイスト……。
 次に響いた女の誘うような声を最後に、ロキの意識は完全に闇の底に落ちて霧散した。


「……どういうつもりだ、スルト」
「それはこっちの台詞じゃ。来て早々、どうしてわしがおぬしから怒りの眼差しを向けられなければならん」
「てめぇ……! 俺が呼び出してからどれだけ経ってると思ってるんだ!? 三日だぞ! 三日!」
「しかたがなかろう。わしはおぬしと違って忙しい身なのじゃ」
 寝台のふちに腰かけたロキの怒声を、部屋に入室してきたスルトはさらりと受け流して、いすを一脚引き寄せると平然とした顔で彼の前に座った。
 ビューレイストとの戦いの最中、突然の出来事にわけがわからないまま気絶したロキが意識を取り戻した場所は、ムスペルヘイムにある建物の一室だった。どうやらムスペルの誰かによってここまで運ばれたらしい。ビューレイストにやられた胸の怪我は、彼が目覚めたときにはすでに魔術によって治療されていて、今では微かなうずきを覚える程度だ。
 あの後――『シンマラの炎』が現れてから、ビューレイストはどうなったのだろうか。そもそも、どうしてあそこで青い炎が出現したのか。
 ヨツンヘイムでの出来事について、ロキには未だに何も知らされていなかった。体調を理由に部屋に軟禁されてろくに身動きが取れず、話を聞きたいとスルトを呼び出しても今日の今まで放置されていた。
(普通、一言謝罪ぐらいするもんだろ……くそっ)
 ようやく来たかと思えば、目的の人物は己に一片の非も感じていない飄々とした態度で、ロキは苛立ちを覚えずにはいられなかった。
 だが、これ以上の言い合いは時間が無駄になるだけだと怒りをぶつけたいのをこらえ、気を取り直して、話をするために口を開いた。
「それで、スルト。おまえに聞きたいんだが……どうして俺とビューレイストが対峙中に『シンマラの炎』が現れたんだ? あれはどういうことだ?」
 どこか咎めるようにロキが問うと、スルトは変わらぬ表情であっさりと受け答えた。
「この前、おぬしに炎を使ったときに念のためにと、おぬしの中に潜ませておいたのじゃ」
「なっ……」
 聞き捨てならない台詞にロキが声をつまらせる。もしかして、胸の怪我のせいとは思えなかったあの不調もそれが原因だったのか。
 新たな火種の発生に、ロキは早々に激情の抑制がきかなくなった。
「おまえ、何を勝手なことを……!」
 声を荒げた彼に、スルトは宥めるでもなく素っ気なく返す。
「なんじゃ、おかげで助かったのじゃから怒ることはないであろう。むしろ、助けてやったことに感謝せい。『シンマラの炎』がなかったら、おぬし殺されておったぞ」
「っ……」
 言い方は腹が立つが内容は正しく、ロキは応酬できなかった。
 瞳を揺るがせて押し黙った彼に、スルトは極彩色の扇を軽く仰ぎながら淡泊に言う。
「話とはそれだけか? もうないのなら、わしはさっさと戻るぞ」
「まて。あいつ……ビューレイストはどうなったんだ?」
 本気で立ち上がりそうな気配を感じ、ロキは動揺と自己嫌悪の沈黙を破ってとっさにそう訊ねていた。
 その質問にスルトは眉一つ動かさなかったが、奇妙な間をおいてからぽつりとつぶやいた。
「……なんじゃ、もう兄ではないと抜かしておったくせに、おぬしはあやつのことが気になってしかたがないようじゃのう」
「ちがっ……俺が聞きたいのは――」
「心配することはあるまい。『シンマラの炎』は生を奪う炎ではない。おぬしと同じで間抜けに気絶しておったわ。何か別件にでも巻き込まれていないかぎり、生きておるじゃろう」
 慌てて言い直そうとしたロキを盛大に無視して、淡々とスルトが答えた。
 ちっとも話を聞こうとしないその態度にロキは苛立ったが、ふと相手の言いように引っかかるものを感じて、途端に熱が引いた。まるで聞いたのではなく、見てきたような言葉ではなかったか。
 はっとしてロキは問うた。
「スルト……もしかして、おまえが俺をここまで運んだのか……?」
「そうじゃ」
 肯定の返事に、たちまちロキの顔が苦く歪む。スルトに運ばれたこともそうだが、それ以上に癪に障ることがあった。
「おい。ビューレイストのことは俺に任せるっていうことになったよな? どうしておまえがあそこにいたんだ」
「ついていかん、とは一言も言っておらん。それにちゃんとおぬしに任せおったろう。わしは手を出すつもりであそこに行ったわけではない」
 言外に自分の失敗への非難を感じて、ロキは強く出ることができなくなる。だが、ここで再び黙り込むと今度こそスルトが帰ってしまいそうなので、悔しさを噛み締めながら懸命に次の言葉を紡いだ。
「……それで、あいつからどんな情報が取れたんだ?」
「まだ何も」
 扇の裏で即答したスルトに、ロキの眼差しが疑惑のそれに変わる。
「何も取れていないって?」
「得た情報の解析がすんでおらんのじゃ」
 そう言われてもロキは納得できなかった。今日までに何日も時間があったはずだ。
 様子から彼が抱く疑問を読み取ったのか、若干面倒くさそうにスルトが詳しい説明をする。
「おぬし、あの炎が単に便利なものだと思っておらぬか。あれは魔力も体力もひどく消耗するのじゃ。しかも、今回は他者を介しての使用、普段よりも負担が大きい。それに解析をできるのは術者であるシンマラだけじゃ。体調を考えれば、時間がかかるのもしかたがないというもの」
 そもそも……とさらに何か続けようとしたスルトを、ロキが慌てて半ば自棄気味に遮った。
「ああ、わかったよ! 俺が悪かったんだろう!?」
 叫ぶロキに、スルトはふんと鼻を鳴らす。
「わかっておるんじゃったら、さっさとアースガルドに行かんか。おぬしの本来の役割は情報を得ることではなく、アース神族との橋渡しをすることじゃ」
(くそ……ぶっとばしてやりたい……!)
 だが、過去の経験から手を出そうものなら容赦のない返り討ちに遭うことが容易に想像できたので、ロキは思うだけに止めた。
 代わりに、念のために確認事を一つ口にする。
「スルト、『シンマラの炎』はもうないな?」
「先程言ったであろう。あれは疲れる術なのじゃ。そう立て続けに使用することはできぬ。だから、安心せい。……シンマラも、おぬしに炎を仕込むのはもう嫌だと言っておったしのう」
 余分に付け加えられた軽口に、ロキはむっとしたが文句を返したくなるのをこらえて話を続けた。
「……わかった。明朝、俺はここを出る」
「ほう、おぬしにしては殊勝な返事じゃのう。……うまく協力を取りつけることができたら、おぬしにも情報を教えてやろう。わかっておると思うが、ヨツンと魔術のことは不必要な者には知られぬよう、内密に行動せい。――では、ロキ。よい返事を期待しておるぞ」
 最後の最後まで飄々とした態度でそう言い残して、スルトは部屋を出て行った。
 扉が閉まり、気配と足音が消えると、ロキは妙に疲労を感じて深いため息を吐いた。
(……本当、あいつと話すのはオーディンとよりも疲れるな……)
 しかも、三日も待った甲斐があったのか、いまいちわからない会話だった気がする。
(まあいい。スルトがまだ知らないのなら、好都合だ)
 精神力を消耗した感はあったが、ロキの心はさほど落ち込んではいなかった。
 背中から寝台に倒れて寝転がる。淡い朱色の天井を見るともなしに見ながら、ロキは気を失う前のことを思い出していた。
(アングルボダ……)
 脳裏に浮かぶ、灰色の髪と闇色の瞳の女の名をロキは胸中でぽつりとつぶやいた。
 アングルボダはロキがアース神族に仲間入りする前に出会った女巨人だった。男に引けをとらない芯の強い女性で、どことなく不可思議な魅力もあり、ロキは妙に惹かれた。アース神族となった後も彼は度々彼女のもとを訪れて、二人の関係は次第に友人というよりは男と女のそれになった。しかし、アース神族と彼女との間でごたついた一件があって以降、ロキは一度もアングルボダとは会っていない。
(あいつが……今回の……魔術のことと、何か関係があるのか……?)
 薄れゆく意識の中に現れたあの『像』が、ビューレイストの記憶なのではないかとロキは考えていた。始めは推測の域を越えなかったそれも、スルトとの会話で『シンマラの炎』が自分に仕込まれていたと知らされて、ほぼ確信まで近づいた。
 ビューレイストが強力な魔術を使えるようになったのも、昔と変わってしまったのも、アングルボダが関係している可能性があるのなら、
(……行くしかないな)
 独り静かに、ロキは決めた。