アースガルドの神々事情 2


 各々が召集の命令を受けて数日後。アース神族の住まう世界アースガルドの中心部にある、黄金の宮殿グラズヘイムに彼らは集まっていた。

「――四名は各自決められたブロックに分かれ、その中で挑戦者から挑戦を受ける形で勝ち抜き戦を行っていただきます。挑戦者に負けたらそこまで。勝者と交代となります。勝ち抜き戦は最後のひとりになるまで行われ、そのあとは各ブロックの勝者同士でトーナメント戦となります。使用する武器については、主催側で用意した剣のみとします。体術は可としますが、その他の道具や魔術の使用は不可とし、使用した場合はその時点で負けとなります。また、規定の時間を越えた場合は速やかに試合を中断し、勝敗は審判による判定となります。……以上が、今回の剣術大会の詳細ですが、何か質問はありますか?」
 フレイが手元の資料から視線を上げて、椅子の横に立ったままで周囲の面々をゆっくりと見回していく。
 外観だけでなく室内にも金の装飾が施された広々とした空間の中央には、最高神オーディンの席を最奥にして、その両端から円を描くようにして主要な神のため高座が六席ずつ配置されている。
 しかし、今はその席は半分しか埋まっていない。フレイ、ロキ、トール、ヘイムダル、チュール、ウル、の六名だけである。浮かべる表情は、それぞれ滲ませている感情の程度は異なってはいるが、皆一様に硬い。
「おい、フレイ」
 呼び声に、フレイの視線が一度は過ぎ去った斜向かいの席に向けられた。
「何でしょうか、ロキ」
「どうして、おまえやウルは参加者じゃないんだ。それに、ここにいない他の奴らは?」
 フレイが話した説明の中の『四名』には、本人ともうひとりの名前がたしかになかった。
 問うたロキの表情や声音には、不満、不服、非難など負色の感情が充ちている。けんか腰とも取れる彼の態度に、隣に座るトールが不安げに顔を向けたが、いつもと違い何か言うこともすることもしなかった。話題に上げられたウルを含めて他の者達もよろしくない雰囲気を感じ取ってはいたが、口を挟むことはせずに、寄越される返答をただ待つのに徹している。
 周囲から訝る眼差しを注がれても、フレイは冷静な姿勢を崩すことなく疑問に応答した。
「先程も言いましたが、私は進行役を、ウルは戦いの審判を務めなければならないので、大会の参加者としては参加しません。不在の者に関してですが、主要な者が全員大会に参加してしまうとアースガルドの護りに不安が生じるため、不参加となっています。なので、大会についての説明は不要のため、この場には呼んでいません」
「不公平だ」
「そうは言われても、私にはどうすることもできません。大会の反対意見は主催のほうへ直接お願いします」
 すかさずの応酬を同じ速さで変化球として返されて、ロキはフレイを忌々しげに睨みつけてから、話題の矛先を部屋の奥に移した。
「オーディン、聞いてただろ」
 だが、他よりも一回り大きい椅子に悠然と腰掛けた、片目に眼帯をはめた白髪の男から言葉はなかった。灰色の隻眼でロキの負の感情を真っ向から受け止めて、口元に薄い笑みを浮かべただけだ。
 一音も明言されなかった最高神の答えだったが、その場に集った者はひとりとして漏れることなく理解に至った。だから、片頬をひくつかせたロキが新たに口を開く前に沈黙は破られた。
「全てはオーディン様が決められたことだ、ロキ」
「そうだよ。ここは諦めて、その怒りを剣にぶつけたらどう? 安心してよ。ロキだろうと誰だろうと、ボクは公平に審判するからさ」
「ロキ、落ち着け」
 諭すようにチュールに、愉しげにウルに、心配そうにトールに、反抗する間もなく次々と言葉を重ねられて、
「貴方の意見は以上でよろしいですか、ロキ?」
 ようやくロキが開口しようとしたとき、まるで狙ったように発せられたフレイの面倒くさげな声音がとどめとなった。
「っ……」
 ロキは噛みしめる歯の軋みが聞こえてきそうなほど苦々しげに顔を歪め、腕を組んで誰からもそっぽを向いた。
 オーディンの隻眼もそこでロキから外された。
 フレイは、場合によっては長時間にも及ぶことになるふたりの言い合いが回避されたのを見て取って、本筋の進行を再開した。
「他に質問はありませんか?」
 しばし待ったが、上がる声はなかった。
「なら……これで終わりで、かまいませんね。ヘイムダル?」
「!」
 突然名指しされて、ヘイムダルは静かにひそめていた眉を跳ね上げた。澱みのない深い青色と目が合って怯んだように数回忙しく瞬く。
「私の答えに何か言いたげに見えましたが」
「いや……大丈夫だ」
「……そうですか」
 若干上擦っていたヘイムダルの返事を受けて、しばしフレイは真意を探るように見つめていたが、あれ以上の追求はすることなく視線を外した。たいして、ヘイムダルは居心地悪そうにしながらも、金髪の相手から目をそらすことはできなかった。
 グラズヘイムに朗々と声が響く。
「これをもちまして、剣術大会の説明は終わりとします。各自、三日後に指定の会場に遅れることなく来ること。なお、不当な理由や無断での欠席をした者には、相応の罰則が課せられます。では、解散」

   ◆

 磨き上げられた鋼が照明の光を鋭く反射する。それは見た目も重さも、普段使っている『剣』と何ら遜色ない。
 だからこそ、これが切ることのできないお遊び用の剣だと頭でわかっていても、実際に手に取ってみても、いまひとつ実感がわかない。
「……おい、トール」
 偽造を防ぐために大会当日に初めて明かされた剣を見つめていたロキはふと思い立って、離れた場所で素振りをしているトールを呼んだ。
「なんだ? ロキ――、っ! うぅぅ……」
 油断しきったトールが自分の間合いに入った瞬間、ロキは躊躇うことなく、視線の先の胴に鋼の刃を直撃させた。
 トールが呻いて腹を押さえて上体を折る。
「本当だ。切れないな」
 トールと手中の剣を見比べて、ロキは納得の感想をこぼした。
 柄を握る手のひらにはたしかに肉体の手応えがあったが、出血はしていない。大丈夫そうだ。
(でも、痛そうだから当たらないでおこう)
 剣の性能を把握するロキの傍らで、トールがゆるゆると上半身を上げる。手をどけた腹部は傷どころか服が切れてすらいない。
「ロキ……やるのならやると、先に言え!」
「言ったら、やめろって拒むだろ。それに、知らせないでやるからこそ、試すことに意味があるんだ」
 罪悪感の欠片もなくしれっと言い切ったロキに、トールは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「――ロキ。試合前に参加者にそんなことしてると、失格にするよ」
 戒める口調で発せられたその言葉は、正面からではなかった。
 ロキはそばの赤髪の人物から、こちらに近づいてくる銀髪の存在へ顔を移した。
「勝負に不正行為は許さないからね」
 言いながら視界の中央で足を止めたのは、ウルだ。トールよりもロキから遠い位置で立ち止まったのは、剣での不意打ちを警戒してのことだろう。
 ロキはあからさまに顔に不満を形作った。
「おまえは楽しそうでいいな」
「そう? 大舞台にボク、今、とっても緊張してるよ」
 ウルが笑顔で、そわそわとした様子で体を小さく左右に揺らす。その胸で、交差する剣の模様が描かれた、大会の主催側であることを示すバッジがきらりと光った。
「どこがだよ」
 不愉快そうなロキの声音に棘が増す。
 しかし、向けられるとがった感情をウルは全く気に留めず、芝居がかった仕草でため息を吐いた。
「やっぱり不機嫌だねぇ、ロキは。シギュンに格好いいところを見せられる良い機会なんだから、もっと張り切ったらどう?」
「なんでそこであいつが出てくる。そもそもシギュンは観に来ない」
「えっ、ついに見捨てられたの?」
「俺が来るなって言ったんだ!」
「へー、負けて格好悪いところを見せるのが嫌だから?」
 緊迫するふたりの間に、鋼の一閃がきらめいた。
「ロキ!」
「あっぶないなー」
 慌てたトールに肩を強くつかまれてもロキは彼を一瞥することなく、剣を振りかぶった体勢のまま、攻撃を跳び退って避けたウルを睨みつける。
「これ以上ふざけたことを抜かすなら、今度は当てるぞ」
「審判にそんな態度をとっていいと思ってるの? ロキ、本当に失格にするよ」
 低い声音、鋭利な眼光が交わる。
 対峙するふたりにどちらも引く様子はない。
 急速に張りつめる空気にトールが頬を強ばらせる。
「お、おい、ふたりとも――」
「なーんてね」
 成り行きを危惧したトールの発言が明るい声に遮られた。
 瞬きをした青色の瞳から好戦的な光が薄れて、表情が普段の穏やかなそれに戻る。
「ここでそんなことしても面白くなさそうだからやめておくよ。ロキ、トール、試合頑張ってね」
 にこりと笑ってウルが背を向けて歩き出す。軽快な足取りに緊張感はない。
 ちっ、とロキは舌を打った。剣を引くと同時に腕を回すようにして肩に置かれたトールの手を振り払う。
 臨戦態勢は解いたが、小さくなっていく背中へ向ける敵意はそのままだ。
(ウルの奴……見てろよ)
 大会で彼の鼻を明かしてやることをロキは決意した。

   ◆

 剣術大会の会場は、普段エインフェリアが鍛錬するときに使っている建物が選ばれた。そこは、神々が集会に使うグラズヘイムと比べると実用性を重視しているため装飾は控えめだが倍以上の広さがあり、三つの試合場が設けられている。
 現在は、そのうちの二つから剣戟の音色が響いている。選ばれた四名と挑戦者による勝ち抜きのブロック戦が行われているのだ。一つのブロックずつではないのは、単に時間短縮のためである。
(さっすがチュールとトールだな。もう終わちゃった)
 先程まで見ていた試合を思い出してウルの唇が無意識に緩やかな弧を描く。
 ウル自身は剣での戦闘を好んで行わないが、見るのは好きだ。腕に覚えのある者達の戦いならばなおのこと。また、戦いに生死が関わらないという点が、人間達に呼び止められるときと違って気楽に見ることができて良く、ついつい楽しんでしまう。
(ヘイムダルとロキは、やっぱり同じぐらいの実力なのかな? 大体勝ち抜く速度が同じだ)
 普段知る機会のない人物の実力を己の目で把握できるのも面白い。
「次は、どーんな感じかなっ、と」
 わき立つ気持ちに合わせて言葉とともにウルが小さく飛び跳ねながら歩みを進める。
 だが、隠さぬ喜色とは逆に体は試合場から遠退いていく。会場の奥へ向けられた足の先には、一つに結った金髪を片側の肩に流した青年が立っている。
「フレイ!」
 大会主催側の関係者との会話を終えて、手に持つ書類に目を落としたフレイが、発せられた名前に反応して顔を上げた。
 たん、たん、たん、とウルが残り三歩の距離を踊るような足運びで床を踏み、立ち止まった。あらためてフレイと視線を合わせれば、少し訝しげな眼差しが返された。
「どうしたんですか、ウル」
「進行役さまにご報告に来た。ボク、休憩が終わってからの担当をロキのに変更してもらったから」
「また貴方は勝手なことを」
 神として決闘の審判の役割をもつウルだが、さすがに同時に行われる複数の試合を見ることはできないため、他にも審判役がいる。誰がどの試合を担当するかは、ひいきが起こらないように審判役以外の大会関係者が決めているのだが、その原則を早々と破ったウルにフレイは険しい面持ちを向けた。
 しかし、咎めるフレイに少しも臆することなくウルはさらりと言い返す。
「いいじゃない。ボクは誰であろうと、公平に審判するよ」
「………」
「だって、ロキの試合の相手はスキールニルだよ。フレイはわくわくしないの?」
「……とくには」
「自分の従者なのに?」
「参加しろと言いましたが、優勝しろとは言っていませんので」
「ふーん」
 そう返事をするウルの頭の中に、ふと一つの疑問が浮上する。
 風の便りで、フレイが最初から進行役として大会への参加を打診されたわけではないことを耳にしていた。けれど、彼の従者が出場して、彼自身が参加をやめた理由は知らない。
 知りたい、と思った。相手がフレイだということにことさら好奇心がうずく。
「何ですか?」
 フレイの濃い青色の瞳が微かに鋭さを増す。
 思考を読み取ろうとするかのような視線を受けて、瞬きを一つ置いてからウルは口を開いた。
「スキールニルって強いの?」
 聞きたいと思った本当の問いは、ひとまず胸の内に隠すことを選んだ。直球で尋ねても真の答えは得られない気がしたからだ。
 好奇心の裏で機を計るウルに、フレイは普段の冷静な口調で受け応えた。
「まぁ、強い部類には入るでしょう」
「ロキよりも?」
「それは、自分の目で確かめたらどうですか」
 言い終わったとき、涼やかな鐘の音が二回響いてきた。休憩終了の合図だ。疲労により後半の挑戦者のほうが有利になってしまうため、定期的にとることになっている。
「貴方の勝手について、今回は特別に見逃してあげます。だから、早く持ち場へ行きなさい」
 落ち着いた物言いだったがそこに宿るのは寛大な意思ではなく、自分の仕事を妨げるのであればただではおかない、という脅し文句が含まれていることを悟れないほどウルは彼との付き合いは短くない。
(フレイも機嫌よくないなぁ)
 好奇心は相変わらずうずくが、ここで本格的にフレイの怒りを買うことは得策ではないだろう。
「ありがとう。行ってきまーす」
 笑顔でウルは試合場のほうへ、フレイの見張るような視線に見送られながら足を向けた。

   ◆

(またウルが審判か)
 休憩が終わり、床よりも二段高い正方形の試合場に上がったロキは、視界の端に銀髪の人物をみとめて、舌打ちをしたい衝動に駆られた。
 始まってからの数試合もそうだった。ウルを見るとつい、開会前のやりとりが脳裏を過ぎって苛ついてしまう。
「――相手、スキールニル」
 耳に滑り込んできた言葉に、ロキは胸中から前に意識を移した。
 鋭い面持ちをした短い金髪の男が試合場に上がってくる。
「まさか、おまえが参加するなんてな、スキールニル」
「フレイ様のご命令です。貴方が最高神の義兄弟とはいえ、手加減はいたしません。全力でお相手させてもらいます」
 主人に似た落ち着いた態度ではあるが、瞳は深い海の色とは逆に照りつく日差しのような熱い闘気を宿している。
「けがしても、俺のせいじゃないからな」
 素気なくロキは言い、不正をできないようにと始まる直前に試合場の床に置かれた剣を拾い上げた。同じようにスキールニルも剣を手に取って、再び互いを見据え合う。
 ふたりの周りの空気が急速に張り詰めていく。
 離れたところから聞こえていた剣戟の音色が聴覚から遠退いて、己の呼吸と心臓の音が強くなる。
 スキールニルが剣を正眼にかまえた。
 ロキは静かにそれを見るだけだ。
「試合、はじめ!」
 開始の声が響くと、真っ先にスキールニルが動いた。躊躇いなくロキの間合いに入り込み、剣を振るう。
 迫り来る刃をロキは冷静に一歩後退することで回避した。
 黒髪の一本にすら触れられずに空を切った剣は止まることなく、新たに踏み込む足とともに追ってくる。
 ロキは下段からの攻撃も同じようにかわして、さらなる連撃も最小限の動きで避けた。その間、碧眼はスキールニルをとらえて、剣を握る右腕は体の横に垂らされたままで動かない。
 その攻防は端からすれば、勢いのある攻めにたいして反撃に転じあぐねているように映ったが、そうではなかった。ロキは至って平静に、わざと攻撃に転じずに見ているのだ、相手の剣筋を。
(そうか。スキールニルの剣はフレイの奴と似てるのか)
 攻撃が十を越えたところで、開始早々に覚えた違和感の正体が腑に落ちた。謎が解け、己がするべき動きがはっきりと見えてくる。
(さっさと終わらせるか)
 ロキは胴めがけて振られた剣を避けると、スキールニルの首元に向かって自分の剣を突き出した。
 ガキッ、と鋭い金属音が響く。
 直進させた剣先は狙いから大きくずれ、相手の肩の上をかすめる。
 ロキの一撃は横から打ち付けられたスキールニルの剣によってあえなく弾かれてしまった。
 反動によろめくようにロキの足が後方に数歩下がる。
 そのすきを見逃さず、ここぞとばかりにスキールニルが距離を詰めて反撃に出る。
 ふたりの間で鋭利な鋼がきらめいた。
「ぐっ……!」
 小さな呻き声。
 顔を苦痛に歪ませたのは、スキールニルだ。小刻みに震える手から剣が滑り落ちて、あとを追うように体も試合場の床に沈んだ。
 試合場が静まり返る。
 倒れたスキールニルは指の一本さえ動かさない。
 ロキは剣を持つ手を体の横に戻して、短い吐息を一つ落とした。
 始めのロキの攻撃は誘い込むための罠だった。スキールニルが勝負を決する一撃を繰り出すことに意識を集中させたところを狙い、ロキが手首を返して剣の柄で相手の手の甲と側頭部を強打したのだ。
 気を失ったスキールニルを見下ろすロキの口元に得意げな笑みが浮かぶ。
「俺の勝ちだな」