アースガルドの神々事情 3


「チュール、トール、ヘイムダル、ロキ。結局、普通な感じになったね。もっとこう、番狂わせ!、的なことがあったら面白かったのに」
 紙面に並ぶ勝ち抜き戦の勝者の名前を見て、ウルが率直な感想を口にした。背もたれに体重をかけられた椅子がぎぃと小さくきしむ音を立てる。
 隣の椅子に腰掛けるフレイは、手中の書類から視線を横に移動させた。
「ロキを焚きつけた本人がよく言いますね」
 呆れを含んだ物言いに、交わった青空の色合いをした瞳が愉快そうな輝きを宿す。
「見てたの? だって、ああでもしないとロキって真面目にやらないじゃん。手を抜かれた試合って、つまらないんだもん」
「見ていて、巻き込まれていたトールが不憫でした」
「トールはロキと一緒だと、いつもあんな感じだから平気だよ」
「自分の父親なのにひどい言い様ですね」
「父親っていっても義父だよ」
 さらりと返したウルは終始笑顔で、そこからは普段目にする楽観的な性格ばかりしか読み取れない。
(そういうところは相変わらず上手ですね)
 ひっそりとフレイは感心する。
 生き別れた母親を求め、突然巨人族の世界ヨツンヘイムからアースガルドにやってきて、己の生死に関わるような一騒動を起こした張本人である。先の話題に思うところが何もないはずがない。
(……それは私も同じようなもの、か)
 アース神族に仲間入りしたきっかけも理由も異なるが、似た者同士ではある。
(まぁ、だからといって、好奇心に付き合う義理はない)
 ウルが一時間もある休憩中にわざわざ自分のいる主催側用の控え室に来た目的を、すでにフレイは察していた。彼の好奇心が刺激される事柄がフレイ自身にとっては楽しいことであるはずがない、ということも。
 なので、ここは先手を打つことにした。
 フレイは目を通していた書類を一つに整えると机の横にある棚にしまい、おもむろに椅子から立ち上がった。
「フレイ? どこに行くの?」
 歩き出す前に目敏くウルが訊ねてくる。
 わかっていたから、フレイは事も無げに答えを返した。
「医務室へ、スキールニルの様子を見に行くだけです」
「なら、ボクも行く!」
「待ちなさい」
 腰を上げようとしたウルを遮るように、すかさずフレイが棚の中から紙を取り出して眼前に突きつけた。それは三枚重ねの書類だ。最前の紙には黒インクで文章が記されており、下の二枚は白紙となっている。
「なに、これ」
 ウルは面食らったように瞬いて、差し出されている書類とそうしているフレイを交互に見やる。三度往復したところでフレイは答えた。
「今回の大会における報告書です。参加者として参加しないかわりに書くようにと、オーディン様からのお達しです。あとで困らないように、この休憩時間中に勝ち抜き戦のことを書いておきなさい」
「えー、そんなのあとでも大丈夫だよ」
「そう言って遅れるのが貴方の常でしょう。それと、雑に書いたら書き直しさせますから、そのつもりで」
 唇をとがらせるウルに問答無用とばかりに言い放って、フレイがウルの前の机に報告書を置いて扉へ歩き出す。
「ねぇ、フレイ、フレイったらー」
 諦め悪く背中に発せられる呼び声に、フレイは扉を開けたところで立ち止まった。顔だけで振り向く。
「ああ、記入する用紙が足りなくなったら、棚の中にありますので好きなだけどうぞ」
「えー、そうじゃなくて……」
「ちゃんと仕事しなさい」
 続くはずだった文句をぴしゃりと封じて、フレイはふくれっ面の相手を尻目に廊下に出て扉を閉めた。


 前もって用意した盾は、予想通り効果てきめんだった。
 試合で気絶したスキールニルが運ばれた医務室に向かう間、目的の部屋の前にたどり着いた今も、ウルが追ってくる気配はない。
 自らの思考優先で楽しいことが好きな彼だが、仕事に不真面目というわけではない。やるときにやるべきことはやるほうだ。やや大雑把になる嫌いはあるが。
 性格的に仕事が好きだとか生き甲斐だとかそういうわけではないから、きっとウルもここに居るために必死なのだろう。半分はアース神族の血を引いているとはいえ、実質生まれも育ちも巨人族で、同じ巨人族出身のロキのように神族の最高神であるオーディンと義兄弟の契りを結んでいるわけではない。何かあったら、アースガルドから追い出される可能性は少なくない。
(その姿勢だけは、私も見習わないといけませんね)
 フレイは思い、前を見据え直すと、医務室の扉を軽くノックして、誰かの返事を待たずに開いた。ふわりと漂ってくる空気に薬草の独特な香りを感じながら室内に入る。
「……フレイ様」
 どこか驚いたような声が耳に届いた。
 左右に二台ずつ並べられた寝台のうちの一台に、己の従者の姿はあった。
 フレイが視線を素早く室内に巡らせる。自分とスキールニル以外誰もいない。好都合だ。
「スキールニル、けがの具合はどうですか?」
 慌てた様子で起き上がり、寝台から降りようとしたスキールニルを片手を上げて許し、フレイは彼の傍に歩み寄った。
「痛みはまだ多少ありますが、たいしたことはありません。ご心配をおかけしました」
 スキールニルは畏まったように背筋を正して答えた。その額から後頭部にかけて白い布が巻かれている。
 見た目は痛々しいが、フレイは寄越された言葉が嘘ではないことを相手の様子から察した。
「それは幸いです」
「あの……フレイ様」
「何ですか?」
 フレイが微かに眉をひそめる。
 古くからの馴染み深い関係であるが故に、主人である自分にたいしてでも平気で遠慮のない物言いをする己の従者にしては珍しく、弱々しい口調だった。表情もどこか暗く沈んでいる。
「この度は、申し訳ございません」
 スキールニルが深く頭を下げた。
 突然の謝罪をフレイは怪訝に思ったが、すぐにその理由を悟った。
「大会で負けたことについて、ですか?」
「はい」
「そのことなら、謝罪は不要です。私は優勝を望んで貴方を参加させたわけではありませんから。……聞くところによると、少々無様な負け方をしたようですが、それには目をつぶりましょう」
「………」
 後半の言葉を聞くや、顔を上げたスキールニルは間違って苦手なもの口にしてしまったかのような表情を浮かべた。
 相手の無言の胸中を察して、フレイは口元に軽く笑みを作った。
「対戦相手がロキとは運が悪かったですね、スキールニル」
 他の者ならば勝てたというわけではないが、ロキではなかったら頭部への打撃による気絶で負け、といういささか情けない負け方にはならなかっただろう。
 スキールニルとロキの試合をフレイは仕事があったためその場におらず見ていない。だが、どのような展開で彼が負けたのか、おおよそのことを聞いただけで想像できた。対戦相手の戦い方は独特だと知っているからだ。
「……ロキは、こちらの戦い方をわかっているかのようでした」
 スキールニルが思い返すようにぽつりと言った。
 瞬きを一つ挟んで向けられた、悔しさよりも思案の気配が揺らめく深い青の瞳を見返しながらフレイが応じる。
「私達がここに来るよりも前から、彼はアース神族に居ますからね」
「それは……」
 疑問の響きがそこで沈黙する。見つめる瞳がうっすらと曇りを帯びる。
 スキールニルとはアースガルドの地を訪れる前から、ヴァン神族の頃から続く長い付き合いである。フレイのあえて遠回しに返した言葉から、スキールニルもオーディンがなぜこんな大会を催したのか、アース神族の長の意図を少なからず理解したのだろう。
 だから、スキールニルはそれ以上のことを黙った。そして、フレイはここで会話を終える選択をした。
「スキールニル、大会が終わる前に貴方は館へ帰りなさい。残りは私が引き受けます」
「承知致しました」
 スキールニルの従順な返事の中に誠実な心配があるのを感じ取りながらも、フレイはあれ以上言うことなく、大会の会場へと踵を返した。