アースガルドの神々事情 4


 会場内に断続的に響いていた重々しい剣戟の音色が、不意に変わった。
 空気を引っかいたかのような耳をつんざく高音に観衆の肌が粟立つ。
 振り下ろされたトールの剣をチュールが自身の剣で受け止めるや、交差した刃を巧みに外側に滑らせたのだ。
「くっ……」
 こめた力のまま中空のあらぬ方向へ流れていってしまう己の剣に、トールが短く唸って足の運びを乱す。
 チュールは眉一つ微動だにさせることなく、当惑しているトールの胴を強かに切りつけた。
「うっ……!」
 茶色の瞳が見開かれ、屈強な肉体がぐらりと揺れる。一歩、二歩、と後ろに下がり……、耐えられたのはそこまでだった。瞼を閉ざすと同時にトールは床に崩れ落ちた。
 鈍い音と硬い音を境に周囲のどよめきが薄れていき、静寂に包まれる。
 チュールは間合いをとると無言で、倒れた対戦相手を見下ろした。
 トールの指が微かに動く。しかし、それも一、二度のこと。うつ伏せの体は起き上がらない。
 試合場の攻防が止んでからきっかり十秒。
「勝者、チュール!」
 審判の声に、停滞していた場内の空気が歓声に震えた。


「うーん……。戦いには自信あったんだがなぁ」
「はっ。おまえの場合は腕力だけだろ」
 試合場から腹部をさすりながら降りてきたトールに、ロキがすかさず揚げ足を取るような言葉を放った。
 しかし、正面からそれを受けたトールに不快の色は少しも浮かばない。むしろ、不思議そうな表情でロキを見る。
「どうした? 苛々して……もしかして、緊張してるのか?」
 今日のロキの機嫌がよくないことは、開会前のウルとの出来事からわかっていたが、今は勝ち抜き戦をしていたときよりも明らかにむすっとしている。トールが思い当たる原因といえば、彼の試合が次だということだ。
 剣先のように鋭くなったロキの碧眼が向けられた疑問を貫く。
「緊張なんてしてない」
(……?)
 発せられている怒気には不満と不服の両方がある。問う前よりも少しそれが濃くなったのは、答えを外した自分のせいだろう。
 トールにわかることができたのはそこまでだった。眼前の相手の苛立ちの原因については、どれだけ考えても他に思いつかない。
 耐えかねたようにロキが舌を打った。
「相変わらず愚鈍な奴だな」
「そんなこと言われてもなぁ」
 トールが頭をかく。
 ロキとは、彼をアース神族に仲間入りさせたオーディンに次いで付き合いが長いが、知能派の彼と肉体派の自分とでは思考回路が異なっているようで、今でも考えが読めないことが多々ある。
 不機嫌の光をたたえる碧眼が、すっとトールから外された。
「ロキ、そろそろ始めます。試合場に上がりなさい」
 聞こえてきた芯の強い声音にトールも試合場のほうへ顔を動かせば、進行役のフレイがこちらを見ていた。
 無言のままロキが試合場へと歩き出す。その横顔には未だ怒りが見て取れる。
 トールは、相手の心境などおかまいなしに指示を出したフレイにロキがやつあたりしないかと心配したが、それは杞憂に終わった。
 鋭い碧眼は試合場の横に立つ彼を一瞥することもなく、同じく試合場に立ったヘイムダルにまっすぐ向けられている。
(ロキ対ヘイムダルか……。面白いが、なんか嫌な組み合わせだな……)
 初めて知ったときにもそう思ったが、実際に目にするとはっきりとした不安がこみ上げてくる。
 ロキとヘイムダルの不仲についてはアース神族の誰もが知っているが、トールはふたりの喧嘩のときによく居合わせていることもあって、対峙する様子を目にすると苦い顔を浮かべるほど心配になってしまう。
(今日ぐらい、面倒なことにならないといいんだが……)
 痛みが引いてきていた腹部がまたずきりと痛むのをトールは感じた。

   ◆

「両者、剣を取りなさい」
 フレイの言葉を受けて、試合場に置かれた二つの剣が手に取られる。
 向かい合う相手の深紫色の鋭い双眸を見返して、ロキがゆるりと口角を上げた。
「けがをする前にやめるのなら今のうちだぞ、ヘイムダル」
「それはこちらの科白だ、ロキ」
 険しい面持ちで応酬したヘイムダルが剣をかまえる。
 ロキは表情から笑みを消して、剣を握り直した。
 静まり返った会場にこれまでの対戦とは少し異なる、殺気にも似た気配が充ちていく。
「試合、はじめ!」
 凛とした声が開始を告げて間もなく、硬質な音が辺りに響いた。
 ロキとヘイムダルがほぼ同時に駆け出して、剣を幾度も打ちつけ合う。両者とも攻められればかわし、受け止め、いなし、そこからほんの一瞬を見計らって攻撃に転じる。
 激しい攻防に、文字通りふたりの間で火花が散る。
 どちらも引けをとらない。一進一退の状況が続く。
(……うっとうしい)
 ロキは嫌気が差してきて、相手の態勢を乱そうと上半身に狙いを定めていた一撃の軌道を唐突に首のほうへと変えた。
「っ……!」
 変則的なロキの攻撃にヘイムダルは頬を微かに強ばらせながらも、剣を持つ腕を上に動かして肩下で迫る刃を防いだ。
 しかし、反動をうまく逃がしきれずに一歩小さく後ろによろめいてしまう。
(いまだ)
 ロキはすぐさま上方から切り込みにかかった。
 だが、ヘイムダルの反応はスキールニルよりも素早かった。膝を落として、鍔際の刃の部分で振り下ろされたロキの剣を受け止める。
「っ、!」
 硬い振動が腕に響く。機転のきいた守備にロキが怯む。
「はあっ」
 ヘイムダルは気迫のかけ声とともにロキの剣を押し返して、鳩尾へと己の剣を突き出す。
 ――近い、避けきれない。
 察して、ロキは左腕を盾にした。
「くっ……」
 噛みしめた歯の隙間から苦痛の呻きがこぼれる。
 痛みに顔を歪めながらもロキは、相手の剣を持つ腕を狙って反撃に出る。だが、一瞬早くヘイムダルは後方に跳び退いて、振った剣はむなしく宙を切った。
(くそっ)
 ロキは自分のほうに剣を戻すと、大きく間合いをとった相手を追わずに、一旦崩れかけた体勢を整えることを選んだ。
「……やってくれたな」
 痺れるような痛みを発している手をたしかめるように動かして、ロキが忌々しげにヘイムダルを睨む。
「この借りはきっちり返させてもらうからな」
「やってみろ。おまえには負けるつもりはない」
 碧色と深紫色の双眸が互いを見据える。
 三呼吸分の沈黙。
 地を蹴る音に空気が再び動き出す。
 先に動いたのはロキだ。ヘイムダルはその場で、向かってくる相手を迎え撃つ。

   ◆

「わぁー、ロキもヘイムダルもまだまだやる気満々だねぇー」
 試合開始から三十分が経過したが、ウルの言ったとおり、試合場のふたりの勢いは未だに衰えない。実力は拮抗していて、決着がつきそうな気配すらしない。
 しかし、そろそろ規定の時間だ。時間内にどちらかが倒れなかった場合、勝者は審判による判定になる。
(これは、勝者を選ぶのは難しそうですね……)
「ねぇ、フレイ」
 甲乙つけがたい試合の様子に懸念を抱くフレイを隣にいるウルが呼ぶ。
「この試合、自然に終わるまでそのままにしといたら、だめ?」
 見上げてくる青の瞳は好奇心で輝いている。
「だめです。審判が規則を守らないでどうするんですか」
「はーい」
 フレイが厳格に言い返すと、そう言われると予想していたのだろう。ウルは残念そうにしながらも返事をして試合場に向き直った。
 そして、数分間相変わらず決着のつきそうにないロキとヘイムダルの戦いを見てから、ふたりに向かって口を開いた。
「ロキ、ヘイムダル、そこまで! ふたりとも剣を置いて!」
 高らかな試合終了の宣言と鐘の音が会場内に響く。
 だが、剣戟はやまない。
「ちょっと、ロキ、ヘイムダル!」
 二度目の呼びかけにも、試合場の動きは止まらない。そもそも、ふたりのうちの片方の目さえ向けられていない。
「……終わりませんね」
「もーっ、しかたないなぁ!」
 むっとした表情でウルが背後に振り返ってしゃがみ込む。
「ウル?」
 フレイがそちらに顔をやれば、疑問の視線の先でウルは床に置いてあった、自分の身長の半分ほどはある縦長の革袋の口を開けた。中に手を突っ込んで取り出したのは、弓矢一式。
 ここでそんなものを手にする理由にフレイはすぐに思い当たった。
「もしかして射るつもりですか?」
「大丈夫だよ。命は奪わないようにしてあるから」
 問いを肯定の説明で返したウルが持ち上げて見せた矢は、先端が通常のとがった矢じりではなく布で包まれた球体になっている。これなら当たりどころが悪くない限りは最悪な事態にはならないだろう。
「……できるだけ穏便にお願いしますよ」
「任せて! 一発で仕留めるから」
「………」
 嬉々とした様子には似合わない物騒な言葉に、フレイはこれ以上言及することはやめておいた。顔を正面に戻す。
 やや苦い表情を浮かべる進行役の隣で、ウルは手慣れた動作で弓に矢を二本つがえると試合場へ狙いを定めた。
 丸い矢じりの先でロキとヘイムダルの剣が繰り返し交り合う。終わる様子は未だにわずかもしない。
 弓矢をかまえるウルの周囲の空気が、狙う先とは異なる緊張感をはらんで引き締まる。
 試合場のふたりが何度目かの距離を縮めたとき、ウルの呼吸が一つ落ちた。
 弦から指が放される。
 ひゅっ、と風を切る軽い音。それに続き、鈍い音が剣戟の代わりに試合場の空気を揺らして、静まり返った。
「はーい、これにて試合しゅーりょー!」
 弓を持つ左手を高く上げてウルが宣言する。
 これまでのような歓声は起きなかった。会場内は茫然とした雰囲気が漂っている。
「まさか、剣術大会で貴方の神業が見られるとは思いませんでしたよ」
 フレイが呆れを含んだ感想を口にすれば、ウルはにっと笑った。
 多くの視線が集まる試合場には、放った矢によって倒れたロキとヘイムダルの姿がある。ふたりとも矢が命中してすぐ、その場にばたりと伏した。小さく上下する背中から死んではいないようだが、これはしばらく起きそうにない。
 フレイが弓を革袋にしまうウルに尋ねる。
「それで、勝者はどちらなんですか?」
「ふたりとも負けだよ! 審判を無視したから!」
 顔だけで振り向いてきっぱりと言い切ったウルは、ついさっき華麗な弓の腕前を元気よく披露していたのが嘘のように不機嫌一色だ。
(しかたがない)
 ずいぶんと私情が混ざった判定だが、ロキとヘイムダルが時間を過ぎても決着がつかず、審判の言うことを聞かずに大会の規則に反したのは事実だ。
 審判の答えを尊重することにしたフレイは、どの観客よりも見やすい場所に特別に設えられた観客席のほうを向いた。
 腰かける白髪の人物が灰色の隻眼でまっすぐ見返してくる。
「オーディン様。試合は、ロキとヘイムダルの両者とも負けという判定がされました。そのため、次の対戦相手が不在となり、自動的にチュールの優勝が決まりますが、いかが致しますか?」
 最終的な決定を下すのは主催者だ。
 オーディンはフレイからその奥へ顔を動かした。隻眼が据えたところには、相変わらず思考の読み取りにくい表情をしたチュールがいる。
 ふたりの視線が絡む。しかし、どちらも何も言わないまま数秒で交わりは解かれた。
 オーディンが再びフレイを見て、ようやく開口する。
「なら、ロキとヘイムダルの代わりに、フレイ、おまえがやればいい」
「!」
 会場内がざわめく。
 フレイは驚きながらも、それが表に出るのをとっさに堪えた。相手に返す言葉は、すぐに見つからない。
「えっ、フレイがチュールと戦うの? ボクそれ、賛成!」
 不機嫌から一転、はしゃぐようにウルが言えば、たちまち周囲に期待の声が飛び交い始める。
「やるか?」
 オーディンが問うてくる。その顔にはいつもの愉快げな笑みがある。
 考えるだけ時間の無駄だ。
「……わかりました」
 フレイができる返事は一つしかなかった。

   ◆

 今まで他人事のように感じていた、高揚した雰囲気が肌にひりつく。
(こんなことになるとは……)
 陥った現状に、フレイが内心で諦念からのため息を吐く。
「フレイ! 準備できたよ!」
 聴覚に飛び込んできた明るい声に顔を動かせば、試合場から降りてくるウルが視界に入った。軽く跳ねるような足取りで、今にも鼻歌でも歌いだしそうなほどに上機嫌だ。
 あまりこの場所で負の感情を出したくないフレイだが、さすがに少し苛立ったので無言で銀髪の彼を睨みつけた。それにウルは気づいたように一瞬目を大きくしたが、陽気さをわずかも失うことなく笑い返して、審判の定位置へと歩いていった。
(まったく……)
 ウルにもしてやられた感が否めない。しかし今さら、後戻りは許されないだろう。
 不快にうずく心を鎮めるため、フレイは一度ゆっくりと深呼吸をしてから、試合場に足を向けた。
 対戦相手であるチュールはすでにそこにいた。試合場に上がってきたフレイを見たあともその表情に変化はない。落ち着いた様子ながらも、歴戦の戦士としての強い気配を感じる。
 それは今回の大会で行われた、どの試合よりも。
(いや、私だからそう感じるのか)
 初めてチュールと出会ったときは敵としてで、それも戦争の真っ只中だった。少しだったが交えた剣の重みは今でも忘れられない。
(だが、今はあのときとは違う)
 単なる剣術の腕を比べる大会だ。あのときのような緊張は必要ない。
「よろしくお願いします、チュール」
「こちらこそよろしく、フレイ」
 挨拶をかわして、互いに決勝のための剣を手にした。


 数回の攻防で、相手の力量はおおよそわかるものだ。
(やはり、強いですね)
 フレイが実感する。水平に振るわれたチュールの剣を受け止め、横に滑らせて反撃に出ようとしたが、一息先に次の攻撃へ移られてしまった。
 フェンリルによって右腕を噛みちぎられ、左腕だけとなってしまった現在でも、その強さはアース神族の中で一、二を争うと周囲から賞賛されている軍神チュールだ。予想していたことだが、これは一筋縄ではいかない。
 フレイは下方から迫ってきた刃を避けると、間髪入れずに突きを繰り出した。
 しかし、切りよりも速いその攻撃でも、チュールは前もってわかっていたかのように無駄のない動きで、刃が届かない位置にまで後退する。
 すかさずフレイは追った。攻めの手を緩めても相手を休ませるだけだ。
 場内に剣戟の高い音色が何度も鳴り響く。剣が重なる度に、相手の力が、自分の力が、身体を巡って血が熱くなっていく感覚がする。
(くっ……。どうしたら勝てる……?)
 このまま打ち合いを続けていたら、先に体力の限界がくるのは自分のほうだろう。
 不利を悟って、深い青色の双眸が勝機を探して鋭さを増す。
 胴に向かい振るわれたチュールの剣をフレイは弾くことで防いだ。しかし、相手が怯む気配すらなく、すぐに次の攻撃が横から襲いかかってくる。
 フレイは上方へと相手の剣を振り払って、空いた脇を狙って自分の刃を落とした。
 剣先がチュールの衣服の真上をかすめる。紙一重でかわされた。
(なんだ……?)
 ふとフレイは違和感を覚えた。一瞬チュールの動作が鈍っていたような気がした。
 剣が交差し、離れる。
(……そうか)
 視界の中で流れる鋼の一閃を追いながら、フレイは先程の違和感の正体に気づいた。
 ――チュールの剣を上方へと除けたとき、わずかだがすきができる。そこをもう一歩踏み込んで攻めれば……。
 胸が高鳴る。
 本能が指示を出す。
 体が動く。
 相手の剣を思い描いた通りに上方へ払う。そして、一歩。
「!」
 だが、突然ちらりと脳裏を過った赤い映像が、踏み込もうとした足の動きを遮った。
(あれは……)
 フレイははっとする。ちらつくように頭の中に見えたのは、過去の出来事だ。
 認識した途端、本能に託されていた肉体の動作が意識に制御される。
(思い出した。これは、あのときと同じ手か)
 対峙するチュールの双眸が意外そうにほんの少し揺れたのを見て取って、フレイは己が誘い込まれていたことを確信した。
 けれど、苛立ちも悔しさもわいてはこなかった。逆に昂揚していた気分が急速に冷めていき、自分達の過去と現在をあらためて思い出す。
 ――これは戦争ではない。ただの大会だ。大切なのは、勝つことではない。
 たとえ、目の前の相手が過去に己の親友を殺した人物だとしても。
(感謝します――)
 友の名を胸中でつぶやいて、フレイは足を踏み込み、剣を振るった。
 胸を狙った攻撃は横に回り込まれる形でチュールに回避され、きらりと鋭い銀光がフレイの目の端に映る。
 とっさにフレイは左足を軸にして、右手の剣を見えたほうへ動かした。
 二つの刃が勢いよくぶつかり合って、硬質な響きが空気を震わせる。
 会場全体が息を呑んだ。
 ふたりの剣が、動きを止めた。
「………」
 フレイは痺れの走った右の腕に一度目をやってから眼前の光景を見ると、短い吐息をこぼして己の剣を自分のほうに引いた。
「これではもう戦えない。私の負けですね」
 フレイの持つ剣は刃の半ばから上を失っていた。ふたりから少し離れた試合場の隅で、その片割れが照明の光を静かに映しこんでいる。
「そうだな」
 刃が小さく欠けた自身の剣を一瞥したチュールは肯定の返事をしながらも、何か問いかけるような眼差しでフレイを見つめた。
 向けられた茶を深い青がまっすぐに見返す。
 フレイは相手が抱く疑問を察したが、答えることはしなかった。折れた剣を足元に置くと無言のまま背を向け、試合場を降りた。
「勝者チュール! よって、本大会の優勝者は、チュール!」
 会場内に喝采が沸き起こった。

 こうして、今までの緊迫感とは一変して終始陽気な雰囲気の中で閉会式が行われ、剣術大会は無事に終わりを告げた。