或る日々の話-東海道新幹線の場合- 1


【読まれる前に】
このお話は、2019/06/23「擬人化王国19」で発行した同人誌の再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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 ああ、腹が減った。
 昼を過ぎて、朝に起こった運行支障による遅れをようやく解消できた。
 俺はひとまずほっとした気持ちで、遅い昼食をとるために事務室の扉を開いた。
「――お疲れ様、シン」
 誰もいないと思っていた室内から聞こえてきたのは、男の声。視界に映るのは、銅色をした短髪の人物が一人。
 俺は一歩踏み入れた足を下げて、廊下側の扉につけられている横長の札を確認した。
 『新幹線事務室』
 間違ってない。俺の事務室だ。
 うなずいて、俺はあらためて室内に入った。後ろ手で扉を閉めながら、ここにいる自分以外の存在を視界の中心に据える。
 俺と同じ金色の警笛紐がついた黒い制服を着た、二十代後半ほどの男の姿。
 ……これも、見間違えじゃない。
「何してるんだよ、じじい」
 俺を迎えた人物はじじいもとい、東海道本線だ。
 在来線の事務室は別に用意されているのに、どうしてここにいるんだ。しかも、まるで自分の居場所とでもいうように堂々と椅子に座って。
 訝る俺に、東海道本線はいつものような飄々とした態度で返事をする。
「おぬしが一人で寂しかろうと思って」
「誰が寂しいか!」
 空腹感もあってつい、苛立ちが大声に変わってしまった。
 俺ははっとして扉のほうに振り返る。壁や扉で一つの空間として区切られているとはいえ、完全な防音ではない。隣は人間のための事務室で、廊下も当然だが彼らが通る。
 みっともない声を聞かれていないか、不安になったがとくに変化は感じられない。大丈夫か。
「シン、そう苛々するでない。どれ、わしが茶でも淹れてやろう」
 誰のせいだと思ってるんだ。
 原因のくせに態度には罪悪感の欠片もない。東海道本線が、壁際にあったものを勝手に持ってきたのだろう折りたたみ椅子から立ち上がって、奥の給湯室へ歩いていった。
 ったく、あのじじいは……。
 面倒くさくて止める気にはなれなかった。
 俺は手にしている駅弁の入った袋を机に置いて、自分の椅子に腰を下ろした。
 食事にする前に、手帳で今日これからの予定と、ここにくる前に聞いた運行に関しての情報を確認する。
 ……運休した列車からの客の振り替えは無事に済んだ……若干車両の運用が変更になるが問題はないだろう……ああ、夕方から夜にかけて団体の客が多いのか……列車の乗降で遅延が起こる可能性があるな……。
「仕事熱心じゃのう」
 感心した風に言いながら、東海道本線が俺の前に濃緑色の湯飲みを置いた。ふわりと鼻先に緑茶の香ばしく爽やかなかおりが漂ってくる。
 俺は注意する時間と該当する列車を書き込むと手帳を閉じて、制服の胸ポケットにしまった。
「他所で油売ってる誰かさんとは違って忙しいからな」
 湯飲みのほうに視線を向けて、嫌みであることを包み隠さずに言ってやった。
 のだが、
「そうじゃのう。わしのほうは随分と平和になったものじゃ」
 返ってきたのは、のんびりとした反応だった。
 俺は横目で東海道本線を見た。椅子に座って湯飲みから茶を飲んでいるその様子は……さっきの返事を裏切らない、隠居して余生を送る老人のようだ。
 空腹感とは異なる、もやついた違和感を腹のあたりに覚える。
 ――それで、いいのかよ。
 湯飲みを置いた相手の、自分よりも茶色の濃い瞳が静かにこちらに向く。
「っ、」
 俺は慌てて目をそらして、とっさに駅弁の袋をつかんだ。
「――東海道!」
 だが、背に走った緊張は突然の大声と音によってかき消された。
 俺は反射的に顔を動かした。
 ノックもなしに扉を勢いよく開けて入ってきたのは、自分と同じ制服に身を包み、白い髪をした若い男。
「なんだ、山陽、何かあったのか?」
 山陽新幹線だ。二年ほど前から、俺の線路を西のほうに延長する形で生まれ走り出した広軌高速鉄道。日本で二番目の新幹線。
 山陽が髪を乱さんばかりの早足で寄ってくる。その表情には焦りが浮かび、少し青白くも見える。
「聞いてよ、東海道! 大変だよ!」
「落ち着け、山陽。どうした、事故か、故障か?」
 俺は山陽の目をじっと見て、感情を強く刺激しないようにわざと起伏の少ない話し方をする。
 あまり取り乱すとその精神状態が運行に影響してしまう。また、運行を正常に戻すのが遅くなる可能性があるからだ。
 山陽は一瞬息を詰めて、喉から声を押し出すように応えた。
「ゆ、幽霊が、出たんだって……!」
「は?」
「だから、幽霊が出たんだって! 深夜に、駅の中を歩く黒髪の長い女の幽霊を、駅員や乗務員が、見たって……!」
 顔を歪めて言う山陽のその声はだんだんと小さくなり、ついには両手を机についてうなだれてしまった。
「………」
「山陽」
「……ぅ」
 ほんの微かに聞こえたのは、言葉になっていない声。顔は上がらない。
 もしかして、こいつ、泣いてるのか?
 完全に下を向いているせいで、髪と影に隠れて表情は全く見えない。だが、今までの経験からこの様子だとそんな感じがする。
 ――世界に誇る新幹線が、幽霊の話で泣いている。
 なだめようと思う気持ちがすーっと引いていった。
 俺は山陽を視界に据え直して、垂れる前髪に手を伸ばした。
「山陽」
「いっ!」
 名前を呼びながら髪の毛を引っ張れば、さっきよりも大きな声が出た。
「山陽」
「東海道……」
 語調を強めての三度目の呼びかけで、山陽はようやく顔を上げた。黒茶の瞳は潤み、いつもより茶色が濃く見える。
 それはきっと引っ張った痛みのせいではないだろう。
「幽霊がどうした。それで運行に支障をきたしたのか?」
「え……いや……でも……東海道は、怖くないの……?」
「ない」
 きっぱりと言い切ってやった。
 すると、山陽は潤んだ目を瞬いて、無言で俺を数秒間見つめたあと、小さく息を吐き出した。
「東海道はやっぱり強いね……」
「おまえが弱いんだ。普段からもう少ししゃきっとしろ。それでも新幹線か」
「ごめんなさい……」
 山陽が目に見えて肩を落とす。反省は、しているのだろう。
 俺はまだ奥からこみ上げてくるものを、ため息に変えた。
「わかったなら、ここで話なんかしてないで仕事しろ。今度の博多延伸で忙しいんだろ」
「うん……」
 短い返事をして山陽が踵を返す。まだ何か言いたげな雰囲気だったが、もう一度こちらを向くことはなく、扉を静かに開けて出ていった。
「ほう。立派な先生じゃのう」
 俺は閉まった扉から視線を左へ動かした。湯飲み片手の東海道本線と目が合う。
 寄越された言葉と微笑を含んだ表情がなんだか気に障って睨み返してやる。
「そんなんじゃない。当たり前のことを言っただけだ。じじい、あんたもだぞ」
「ん?」
「とぼけるな。こんなところでお茶なんて飲んでないで、さっさと自分のところに戻れよ」
 すると、東海道本線は湯飲みを机に置いて、うなだれた。
「嫌じゃ。わしも幽霊怖い」
 どう見ても聞いても演技だとわかる。
 俺で遊ぶのも大概にしろ。
「ふざけるな」
「冷たいのう。シンは幽霊が怖くないのか?」
「ないってさっき言っただろう」
「そうか」
 東海道本線が顔を上げる。
「さすがはシン。頼もしいのう」
 なんだ。その、したり顔は。ばかにしているのか。
 俺は睨む眼に力をこめたが、東海道本線は全く気にした様子なく椅子から腰を上げた。
「さて、わしも山陽に会いに行くとするかのう」
 そんなことを言いながら俺の後ろを通って扉へ。
「そうだ、シン」
 扉の丸い取っ手に手をかけたのでそのまま出ていくと思いきや、東海道本線は顔だけで俺に振り向いた。
「わしは明後日まで西のほうにおるからな。何かあったら、いつでも声をかけろ」
「ああ」
 気持ちの薄い適当な返事だったが、満足したのか、ようやく東海道本線は部屋から去っていった。
 静かになった室内で、俺は椅子の背もたれにもたれかかる。ギィと音を立てる椅子にかまわず、体重を預けて天井を仰いだ。
「どいつもこいつも、真面目に仕事しろよな……」

   ◆

 あと二時間ほどで日付が変わる。
 だが、名古屋駅からまだ人の姿はなくならず、ざわめきに包まれている。
 朝からよく見かけたスーツ姿のビジネスマンや着飾った人々は減り、代わりに、大きな荷物を持った人の姿が多く目に入る。改札へ行かずに待合室や通路にいる人のほとんどは、在来線の夜行列車に乗る客だろう。夜も遅いというのに眠気のない顔で会話する大人、元気に駆け回ってはしゃぐ子供もいる。
 どことなく朝や昼とは違う高揚感を抱く人々にぶつからないように注意しながら、俺は太い柱の並ぶ通路を足早に通り抜けて新幹線の改札口へ向かった。
 改札の中に入る前に、そばにある窓口にいつもしているように駅員に声をかけておく。
「東海道新幹線だ。これから新大阪行きの最終列車に乗務する」
「お疲れ様です。了解しました」
「何か問題は起こってないか?」
「大丈夫です。問題ありません」
「ありがとう」
 俺は改札内に入ると、頭上にある列車の発車時刻を知らせる掲示板を確認して、懐中時計を取り出した。
 新大阪行きの列車が発車するまであと十七分。まだ時間があるから、念のために改札内やホームを見て回るか。
 新大阪方面のホームに続く階段とは逆の方向に歩いていく。
 この時間にとくに注意したいのは、酔っぱらいだ。間違って線路に入られたら遅延、悪ければ運休せざるを得なくなってしまう。今日は朝から順調に走れている。最後の最後で転ぶようなことはしたくない。
 南改札を歩き、東京方面のホームに上がり、北改札へと降りる。
 ……今のところ、危険な物や人物は見当たらない。
 待合室から出て、懐中時計を見る。あと八分。そろそろ大阪方面のホームに行くか。
「……あの……」
 ホームに上がる階段まであと四歩というところで、小さな声が耳に届いた。
 俺は立ち止まって辺りを見回した。
 ……だが、通り過ぎる人がいるだけで、話しかけてきた者らしき人影はない。
 自分にだと思ったが、気のせいだったのか。
 そう思って、歩みを再開しようとしたときだった。
「あの……」
 また声が聞こえてきた。今度は制服の上着の裾を下に引っ張られる感覚もした。
 俺は顔を右斜め後ろに向けて、ようやく気づいた。
 自分の腰ほどの身長の子供が一人、すぐそばに立っている。見上げてくる黒い瞳、耳が見える長さの黒髪、長袖の白色のシャツに紺色の半ズボン。男の子か。
「何か用か?」
 しゃがみこんで目線を子供の高さに合わせて尋ねる。
「あの……あの……」
 子供は何度か口を開くものの、先が言えずに口ごもってうつむいてしまった。
「どうした。何か用か? もしかして、迷子か?」
 あくまで穏やかに優しくを心がけてもう一度尋ねる。
「……あの」
 子供はゆっくり顔を上げ、一呼吸置いてから答えた。
「しんおおさかに、いきたい」
「新大阪? なら、そこの階段を上がれば新大阪行きの新幹線に乗れる、が……」
 言葉の途中で違和感を覚えた。
 俺は子供から周囲へと視線を移す。
 あちらこちらで新幹線の乗客だろう人間の姿がある。だが、その中で俺と向き合う子供を気にしている者は、全く見当たらない。
 俺は子供に視線を戻した。
 大きな黒い瞳がじっと見返してくる。
 ――夜の十時に新大阪へ行きたいと言う子供。周りに保護者らしき人間はいない。
 まさか……。
 俺は感じた嫌な予感を滲ませないように気をつけながら、頭に浮かんだ疑問を口にした。
「坊や、お父さんとか、お母さんとか、家族の人はいないのか?」
 子供が瞬いて、息を吸う。
「……いない……」
 聞き間違いだと思いたかった。しかし、囁くようだった声はたしかに俺の耳に届き、視界の中で狭い肩は落ちて、顔はうつむきがちになっている。
 こんな子供がこんな時間に一人旅って、嘘だろ……。
 俺は信じられない気持ちのまま、鉄道の者として聞いておかなければならない質問を喉の奥から絞り出した。
「じゃあ、新大阪までのきっぷは持っているか?」
 子供が半ズボンを両手で握りしめる。小さな頭が左右に振られた。
 ない、か。そうだろうな。
 予想していたが、俺は落胆を覚える。
 しかたない。入場券しかないとなると、可哀想だが新幹線には乗せられない。この時間に一人で帰すわけにはいかないから、事情を話して駅員に対処してもらうか。
 決めて、俺は口を開く。
「おかあさんにあいたい……」
 子供がぽつりとつぶやいて縮こまる。瞼が半分ほど下りた瞳には光るものが見えた。
 俺は、唇を閉じて発しようとしていた言葉を呑み込んだ。
「う、う……」
 子供の片方の眼から涙がこぼれ、頬をつたって流れ落ちる。
 胸の奥のほうが妙にうずき出す。声を押し殺して泣く子供の姿に居たたまれなくなってくる。
 ――どうする?
 あらためて飛来する疑問。
 どうするかなんて、決まっている。きっぷのない者を乗車させるわけにはいかない。
 それは当たり前のこと。守らなければならないこと。
 ……けれど。
「おかあさん……」
 子供が声を震わせる。その頬は赤く上気して、涙ですっかり濡れている。
 新大阪行きの最終列車の発車時間は迫っている。ぐずぐずとしているわけにはいかない。
 俺は一回深く呼吸してから、子供を見据え直した。
 ――そうする、しかない。
 迷いを断ち切って、今度こそ決めた言葉を口にする。
「わかった。新大阪に連れていってやる」