或る日々の話-東海道新幹線の場合- 2


 自分がいけないことをしているとは、わかっている。
 俺は新大阪行き最終列車の乗務員室の扉を閉めて、機器の置かれた机の椅子を窓からも見えない位置に移動させた。
 扉のほうに視線をやる。
「この椅子に座って静かにしていろ。窓には近寄るなよ。あと、中にあるものに勝手に触らないこと。いいな?」
 少し強めの口調で言うと、子供は一回うなずいて椅子に座った。きょろきょろと物珍しそうに室内を見回してはいるが、手は座面に置いて、言った通りおとなしくしている。
 俺は張っていた肩の力を少し抜いて、扉にもたれかかった。列車の運行感覚に意識を傾ける。
 ……大丈夫、正常に走れている。
 子供をここまで連れてくるのに、駅員や乗務員に気づかれないようにするためにかなり神経を使った。それが運行に影響してないか心配だったのだが、よかった。とりあえず、一安心だ。
「――東海道新幹線殿、いらっしゃいますか?」
「!」
 どきりと心臓が跳ねる。
 背後の扉からノックの音とともに呼び声が聞こえてきた。乗務員だろうか。
 俺がこの列車に乗っていることは伝えてあるから、無視するわけにはいかない。
 何事かとこちらを向いた子供に閉じた唇の前で人差し指を立ててみせてから、振り返ってゆっくりと控えめに扉を開けた。
 扉の前に立っていたのは、若い男の乗務員だ。
「何か用か」
「はじめまして。新大阪まで乗務員をつとめます、松田です。よろしくお願いします」
 見慣れない顔と名前と言葉からして、新人か。
「ああ、よろしく」
 俺が応えると、松田乗務員は笑顔で一礼して歩き去っていく。後ろ姿が隣の号車に消えていくのを見送ってから、俺は扉を閉めた。
 焦った。冷静な様子でいつも通りの対応はできていただろうか。子供は見つからなかっただろうか。
 ……あの様子だと、きっと大丈夫だ。
 乗務員室内に向き直ると、子供はうつむいて椅子の上でぶらぶらと両足を揺らしている。
「もうすぐ発車する。新大阪には一時間半で着くからな」
 ばれなかったことにほっとしながら俺が声をかけると、子供は顔を上げて、「うん」と小さな声で返事をした。


 列車が岐阜羽島駅を通過した。
 まだ小さいから、寂しくなってぐずったり退屈で騒ぎ出したりするかもと心配したが、子供は静かに椅子に座り続けている。
 ……これなら、見回りの仕事に出ても大丈夫か。
 子供を一人きりにすることは不安だが、仕事として乗っているため、新大阪駅に到着するまで乗務員室にこもっているわけにはいかない。
 名古屋駅から迷っていたことに区切りをつけて、口を開く。
「俺は今から少し車内を見てくるから、ここにいろ。誰かきても返事をしないこと、扉を開けないこと。いいな?」
 言い聞かせるようにそう言うと子供はうなずいた。
 俺は乗務員室を出て扉に鍵をかけた。俺が車内の見回りに出ていることはさっき乗務員に連絡をしたから、後半のようなことはないと思うが念には念を、だ。
 9号車にある乗務員室から1号車に向かって歩いていく。
 低い振動と走行音が車内に響いている。二十三時まであと十分ほどとあって、客はそれなりに乗っているようだが列車の中は静かだ。席に落ち着いた乗客のほとんどはのんびりと酒を飲んだり、眠ったりしている。
 普通車からビュフェ車へ。昼間は軽食とともに壁にある速度計や窓の外の景色を眺める乗客でこみあうが、今は大人の男女が一人ずつ窓側のカウンターに並んで座っているだけだ。
 ……あの子供の父母、なわけがないか。
 睦まじい様子で会話している男女にふとそんなことを思ってしまい、俺は二人から目を外して、その背後の通路をやや足早に通ってデッキへ出た。
 今まで通ってきたところと変わりない。人気はなく、淡々と列車が前に進む音ばかりがする。
 乗降口の扉の前で立ち止まり窓に視線をやれば、ぽつぽつと光の筋が流れる夜の景色の中に自分の姿が映っている。
 こちらを見る白い髪の男の表情は、冴えない。順調な運行に関わらずそうなのは、一つのことが頭の内側に重くのしかかっているからだ。
 ――本当に、このまま、あの子供を新大阪へ連れていくべきなのか。
 問いが何度も繰り返される。罪悪感が背筋を冷たくする。
 常識的に考えて、自分が現在しているのはいけないことだとわかっている。だが、どうしても放っておけなかったのだ。大切な人に会いたいと望む子供が昔の自分と重なって、断って帰すことができなかった。
 ……ここまできたんだ。今さら後には引けない。あの子供は新大阪へ連れていく。何かあったときは俺が全面的に責任をとる。
 俺はあらためて問いに答えを返して、乗降口の扉の窓から正面にある貫通扉のほうに顔を戻した。
 見回りを再開しようと足を動かす。
 が、背後から制服の上着の裾を引っ張られる感覚がした。
 前に一歩置いた足をそのままに顔だけで後ろに振り返ると、視界に入ったのは、見覚えのある黒髪の子供が一人。
「おまっ……乗務員室にいろって言っただろう……!」
「………」
 ぎょっとして言った俺を見上げていた子供の顔がうつむく。
 しまった。声量こそ大きくはならなかったが、強い口調になってしまった。
 俺は慌てて子供のほうに体も向けてしゃがみこんだ。恐がらせないようにと注意しながら口を開き直す。
「悪い。どうした? 何かあったのか?」
「ん……」
 子供は言葉になってない声を発して俺の制服の袖をつかんだ。おずおずと目を合わせてきたその表情は、悲しげだ。
 ――ああ、乗務員室に一人きりで寂しかったのか。
 理由は察した。だが、だからといって見回りに連れていくわけにはいかない。
 乗務員室に戻るように言うか……いや、乗務員室に一人で入るところを誰かに見られたら……一人で帰すのは心配だ。ここで待たせて、残り四車両分の見回りを早々とすませて一緒に戻るか……いや、米原駅に着く前に戻ったほうがいいか……。
「――あ、東海道新幹線殿」
「!」
 唐突に耳から滑り込んできた声に思考が中断される。
 俺は後ろを見て、とらえた相手の姿に急いで立ち上がった。
「お疲れさまです」
「お疲れさま……」
 4号車の貫通扉から出てきたのは、松田乗務員だ。
 俺は挨拶を返しながら、背後になった子供のことを気にかける。自分の体で隠れているだろうか。確認したいが、松田乗務員が前まできたために視線をちらりとでも動かせない。
 速まる胸の鼓動を喉元にまで感じながら、意識して普段通りを装い言葉を重ねる。
「何か異常はあるか?」
「いいえ。皆さん、静かに過ごされています」
「そうか」
 挨拶をしにやってきたときと変わらず、松田乗務員は笑顔だ。明るいその表情が下方を気にする様子はなく、どうやら子供のことはまだ気がついていないようだ。
 このまま乗り切りたい。
「そうだ。東海道新幹線殿。お聞きしたいことがあるんですが、いいですか? 名古屋駅の駅員から聞いた話なんですが……」
 どきりっと鼓動が一瞬強くなる。
 松田乗務員の表情から笑みが引いていき、どこか深刻そうなものに変わった。
 もしや、連れてきた子供のことがばれたのだろうか。
「なんだ?」
 内心冷たいものを感じながらも、俺は平静さを崩さないように注意して聞き返す。
 と、後ろで子供が動いたような気がした。
 待て、隠れていろ、と心の中で言う。見えないのがもどかしい。
「その、ですね……」
 松田乗務員の視線が妙にあちこちに移ろう。
 俺はくるかもしれない発言に心構えをして、重ねられる言葉をじっと待った。
 三十秒は経っただろうか。瞬きを一つ挟んでから、目の前の瞳が再び俺をとらえた。
「新大阪駅に幽霊が出るって、本当ですか……?」
「……え?」
 幽霊? 今、そう言ったか?
「長い黒髪の女の幽霊だとか……。おれ、そういうの本当にだめで……。幽霊を、東海道新幹線殿は見たことありますか?」
 硬い表情のままで松田乗務員が聞いてくる。
 俺はすぐには返答できなかった。
 予想していなかった発言に思考が鈍る。漠然と幽霊、幽霊と繰り返すうちに、昨日の昼の出来事が浮上してきた。
 『だから、幽霊が出たんだって! 深夜に、駅の中を歩く黒髪の長い女の幽霊を、駅員や乗務員が、見たって……!』
 もしかして、山陽が言っていたやつか。
 あのときのことを思い出すと、緊張が驚きとともに薄れていく。
 俺はため息をこぼしそうになって寸前で堪えた。
 早くこの場を切り抜けたい思いと、しょうもない話のせいで業務に支障が出るのを避けたい思いから、関心がない風を全面に出して対応することにした。
「さあ、見たことがないな」
「そうですか……」
「大方、疲れていて見間違えたんだろう」
 そういうことにしておけ。
 まだ顔色の優れない松田乗務員に心の中でそう言葉を付け加えて、俺は懐中時計を取り出して盤面に目を落とした。
「話がそれだけなら、1号車のほうに戻れ。そろそろ米原駅に着く」
「え、あっ、はい。失礼します!」
 松田乗務員は我に返った様子で返事をすると踵を返し、急いだ足取りで貫通扉の先へ歩いていった。
 ……よかった。どうやら、子供のことはばれなかったようだ。
 ほっとして俺は後ろを振り返った。
「!?」
 目を疑った。
 いない。そこにいると思っていた子供の姿がない。
 頭の天辺から背中にかけて血の気が引いていく。
 どこに行ったんだ? 隠れているだけか?
「おい、どこだ? もう出てきても大丈夫だぞ」
 大きくできない声を上げながらデッキを隅から隅まで見てみるが、いない。
 乗務員室に戻ったのか? まさか、他の乗務員につかまってないだろうな。
 前者であることを願って、俺は足早に乗務員室へ向かって引き返す。
 5、6、7、8号車にも見当たらない。
 9号車の乗務員室の前にたどり着いて、俺は気が急くままに扉を開ける。
 ガタッ。
 しかし、意志に反して扉は開かない。
 なぜだと戸惑いながら何度か引っ張ったり押したりして、鍵がかかっていることに気づいた。
 くそ。
 焦るあまり手持ちの鍵を取り落としそうになりながらも解錠して、ようやく扉を開いた。
 大人が三人も入ればいっぱいになってしまう狭い空間には、短い黒髪の子供が一人、椅子に座っている。
 見覚えのある黒の瞳と視線が交わって、俺は肩の力を抜いて深く息を吐いた。
「……勝手にいなくなるなよ……」
 胸をなで下ろして扉を閉めた乗務員室内に、列車がまもなく米原駅に到着するアナウンスが響いた。