鉄路を走る者 1


【前書き:過去に夏コミで発行したコピー本です。諸事情により2019/11/15から全文を公開しています】


 異変は、突然だった。

 部屋から出ようとしたとき、焦げ臭いにおいを感じた。
「?」
 俺は扉に向かって踏み出したばかりの右足を後ろに戻して、事務室の中を見渡した。
 だが、視線を一巡らせしただけで足りる狭い室内には、発生源らしき煙も火の気も見当たらない。
 気のせいか?
 思い、俺はあらためて空気を嗅いでみた。
 違う。やはり、においがする。いけないものを燃やしたような、不快になるにおいが。
 鼻先で手を振ってみるが、不審なにおいは薄まるどころか逆に強くなる一方だ。
 中でないなら外か?
 俺は閉めきられた曇りガラスの窓に目を移した。しかし、原因が部屋の外にあるにしては騒ぎの気配もなく、四角い窓には怪しい影の一つも映らない。
 ……一体、何だ。
 不気味さと疑問で頭の隅がざわざわとし始める。
 この場所は名古屋駅の新幹線ホームの端に位置する事務室だ。近くに火の気なんてほぼないに等しい。なのに、焦げ臭い……?
 おかしい。これは、無視しておくことはできない。念のために新幹線の総合指令所と連絡を取ろう。
「……ん?」
 思い立って、ポケットから携帯端末を取り出そうとしたが、動かした右の手が急に熱っぽく感じた。
 引き寄せた手のひらを見下ろす。けれど、どこにも異常は見当たらない。動かしてみても痛みはない。
 重なる不可思議に眉を寄せながら、俺は携帯端末をその手につかんだ。
「! けほっ、ごほっ」
 突然、弾けるような乾咳がこぼれ出てきた。二度ではおさまらず、三度四度と続く。
「なんだ、よ……!」
 先程までは何ともなかったのに、今は喉の奥がいがいがする。
 と、ポケットに伸ばしている右手に振動を感じた。携帯端末のバイブだ。何か受信したようだ。
「けほっ」
 俺は引かない喉の違和感に顔をしかめながら、携帯端末をポケットから取り出した。
 ボタンを押せば暗かった画面に光が灯って、表示された赤色の羅列が真っ先に目に飛び込んできた。
 息を呑む。
 『沿線火災、発生』
 携帯端末の画面に映るその文字列が視覚からじわじわと脳に染み入って、不快感が恐怖へと変化する。肉体に感じる熱さとは逆に、背筋にひどい悪寒が走った。
「ぅ……」
 俺は崩れるように床へ膝をついた。足にうまく力が入らない。
 画面の赤い文字列を見ると、目に突き刺さるような痛みを覚える。
 携帯端末を握る手が小刻みに震えている。
「……しっかりしろ、しっかりするんだ……!」
 必至に自分に言い聞かせる。
 沿線火災なんて、初めてのことではない。これまでもあった。煙のせいで視界不良になって運転を見合わすぐらいで、設備が壊れることはなかった。だから、今回も大丈夫だ。恐れることはない。
 気を抜けば暗闇に落ちそうな意識を強くもって、携帯端末を操作しようとしたとき、着信が入った。切り替わった画面には、新幹線総合指令所、とある。
 震える指で携帯端末の通話ボタンを押して耳に当てれば、男のどこか強ばった声が聞こえてきた。
「東海道新幹線総合指令所の雨宮です。東海道新幹線、品川付近で沿線火災が起こりました」
「ああ……速報を見た。火災の状況は、どうなっている?」
 意地で咳をねじ伏せながら応答すると、相手の声ににじむ緊張感が強くなったように思えた。
「火災は線路そばのビルで起こっています。設備との距離が近く、煙と炎が迫っています。延焼する可能性があります」
 それで、か。
 俺は体に現れた異変の理由を理解した。火災の影響が今までに経験したどの沿線火災よりも強く出ているのだ。
 ――延焼の可能性。
 望んでいないのに脳が、線路設備を焼く炎の様子を鮮明に描き出して、恐怖が増す。
「っ、けほ、けほ」
「東海道新幹線? 大丈夫ですか?」
「……平気だ。火災がおさまるまで、運転を見合わせる。走行中の列車は、ただちに安全な場所で停車させる」
「了解しました。……あ、しかし、もうすぐ東京に向かっている列車が――」
 その先は聞けなかった。
 握っていた手から携帯端末が床に落ちてしまったのだ。
 何をしているんだ。拾わなければ。
 そう思うが、右手も左手もうまく動かせない。
 力を入れるどころか、全身から力が抜けていく感じがする。
「けほ、ごほっ、ごほっ!」
 咳が激しくなる。止められない。息が苦しい。
 視界が揺れ、明滅し、妙に薄暗くなる。
 ……だめだ。俺は、走らなければならない存在なんだ。顔を上げろ。前を見ろ。体を動かせ。こんなことで、屈するな。
 ――そうだ。新幹線、己がやるべきことをやれ。
「っ……しま、さん……」
 懐かしい人の姿が脳裏を過ぎったのを最後に、全てが黒一色に変わって、消えた。

   ◇

 大きな白の陰の中で小さな姿がうずくまり、泣いている。
「ひぐっ……」
 くぐもった声がこぼれる。
 涙が頬をつたって地面に落ちる。
「うっ、うっ……」
 体の奥からこみ上げてくるものがとまらない。
 目が熱い。胸が苦しい。頭の中がぐらぐらする。
「――新幹線? こんなところでどうしたんだ?」
 ふと耳に届いたのは、知っている声。
「ぅ、しま、さん……」
 うつむいていた顔を上げて、かすれた声で現れた人物の名前を口にする。
「ああ、目をこすってはだめだ。ほら」
 折り畳まれたハンカチがそっと濡れた目の下に当てられた。
 柔らかな肌触りに不思議と不快な熱さが引いていく。
「島さん……」
 少し落ち着いた声でもう一度その人の名前を呼べば、
「どうした? 何かあったのか?」
 優しい声と眼差しが聞いてくる。
 一つ呼吸を置いてから、涙がこぼれる理由を、胸に渦巻く疑問を、言葉に変えた。
「僕、いらないって……。『新幹線』なんて、いらない、むだだって……言われた。僕は、走っちゃいけないの……? いらないの……?」
「そんなことはない。おまえは、この時代、これからの時代に必要な鉄道だ」
「島さん……」
 すぐに返ってきた言葉は真剣で穏やかで、胸の苦しさが楽になる。
 けれど、不安は消え去らない。安心すると同時に、自分を忌まわしげに見下ろす人達が脳裏を過ぎって、再び気持ちが沈んでしまう。
「でも、僕……わっ」
 不意に視界が高くなった。
 そばにある白色の車両の窓がいつもよりも近くにある。抱き上げられたのだ。
 戸惑いながら自分を抱えている人のほうを向けば、力強い視線が返ってきた。
「新幹線」
 大きな手が小さな手をとって車体に触れさせる。
「おまえを必要ないと言った者は、まだおまえのことをよく知らないだけだ。そういう者達に教えてあげろ。走って、走り続けて、『新幹線』がどういう存在かを」
 語りかけてくる声に、硬く滑らかな感触に、乱れていた頭の中が気持ちがすっと静まっていく。
 そして、涙の代わりにわき上がってくるのは温かな感情と望み。
 ――走りたい。新幹線として、走っていきたい。
「うん。僕、がんばる」
 笑顔を返せば、その人もうなずいて笑った。

   ◇

 新幹線、と呼ばれた気がした。
 早く起きなければいけない、走らなければいけない、そう強く思った。
「っ……」
 瞼を開くと、飛び込んできた強い光に目が眩んだ。
 妙に焦る気持ちの中、俺は何度か瞬きをして、ぼんやりとしている視界を落ち着かせる。
 視線の先にあるのは、細長い蛍光灯がついた淡いクリーム色の天井だ。見覚えがある。
 ここは、たしか……。
 考えながら俺は床に横たわっていた体を起こした。
 と、拍子に額から何かがずれて落ちていった。見れば、折り畳まれたタオルが……いや、手に取ってみるとそれは冷たくて固い。保冷剤を巻いたタオルだとわかった。
 なんでこんなものが……?
「――起きたのね、東海道新幹線」
 近くで聞こえてきた女性の声に手元から顔を上げると、三歩ほど離れたところに、長い黒髪を結ったスーツ姿の女性が立っていた。
 JR東海の主幹だ。彼女は腕を組み、黒茶色の瞳でじっと俺を見ている。
 ……なんだ。深刻そうな表情をして、一体どうしたんだ?
「平気?」
「?」
 東海の表情も問いの意味もよくわからなかった。
 平気、だって? どうしてそんなことを尋ねる。俺は別になんとも……いいや。おかしい。ここは名古屋駅の一角にある自分用の事務室で、なぜ、そんなところで俺は寝ていたんだ? 今は昼間だ。自分が走るべき時間帯だというのに……。
「品川付近で沿線火災があったのを知ってる?」
「!」
 ――沿線火災。
 頭の中で赤い文字がちらつく。心臓の鼓動が速くなる。嫌なにおいと息苦しさと焼けるような熱さを思い出す。
 そうだ。ここで異変に気づいて、総合指令所と連絡をとって……、もしかして、俺はあのまま気を失ったのか。
「東海! 状況は? 今、どうなってる?!」
 尋ねながら、自分の走行感覚に意識を集中する。
 ……ひどく静かだ。今は一本も走っていない。
「新大阪から東京の全区間で運転見合わせ中よ。火災のほうは一時間前に鎮火したわ。現場は線路に近かったけれど、幸い運行設備に延焼はなし。火災中にすぐそばを通過した列車にも損傷はなし。他の走行中だった車両は全て安全に停車して、乗務員や乗客に負傷者はいないとのことよ」
「そうか……」
 どうやら無意識下で列車の走行を制御できていたようだ。
 俺は安堵して、すぐに別の不安を感じた。
「運行再開はいつできるんだ?」
「そろそろ、かしら」
「じゃあ、」
「待ちなさい。はい、これ」
 立ち上がろうとした俺に東海が投げて寄越したのは、俺の携帯端末だった。
 ん? 山陽新幹線に電話を発信中?
 画面の表示に考えている間に、通話に切り替わってしまった。
 俺は疑問をそのままにして、とりあえず携帯端末を耳に当てた。
「――東海道!? 大丈夫なの!? ねえ、東海道!?」
 突くような大声に一瞬目の前がくらりとした。
「うるさい! 少し声をおさえろ、山陽」
「東海道……! よかったぁ……。君の意識がないって連絡があって、僕、心配で、しんぱいで……それ……ま……ぅ」
 今度はだんだんと小さく不明瞭に変わり、聞こえなくなっていく。
 もしかして、泣いているのか? ったく。俺の次に走り出した新幹線のくせに、相変わらず情けない奴だ。
 心の中でため息を吐いた。だが、さすがに状況が状況なだけに、今回は指摘するのはやめておくことにした。
「心配かけたな。もう平気だ。異常はないから、すぐに運行を再開する」
「ぅ……んとうに、大丈夫、なの? もし、あれなら……あの、僕が、代わるよ……?」
「おまえが? ダイヤが乱れに乱れた東海道新幹線を運行するって? 馬鹿なこと言ってないで、自分の区間の運行に集中しろ」
「……ふふ、そうだね。東海道の言うとおりだ。わかったよ。でも、無理はしないでね? 手伝えることがあったら、遠慮なく言ってね?」
「ああ。運行再開の時間が決まったら、また連絡する」
「了解」
 すっかり普段の明るさに戻った声で山陽が返事をして通話を切った。
 泣いたかと思えば笑うって、本当、忙しい奴だな。
 やや呆れながら俺は携帯端末を持つ手を下ろした。
「問題なさそうね」
 視線が合った東海の顔から緊張の色はいつの間にか消えていて、唇の両端を引き上げていつもの笑みを浮かべている。
「一時間以内に運行を再開するわ。残りの時間で一本でも多く走らせなさい、東海道新幹線」
 聞き慣れている凛としたその声音が、今は心地よく頭の中に響き、片隅に残っていた痛みや不安が取り払われていくのを感じた。
 そして、脳裏をかすめるように一人の男の顔が過ぎった。
 ……大丈夫。自分は走れる。
「了解」
 俺はまっすぐ立ち上がった。