或る日々の話-東海道新幹線の場合- 3
運行は順調だ。あと五分もすれば終点の新大阪駅に着く。
しかし、俺の気分は安らぐどころか駅に近づくほど緊張が増している。その理由は、最後の難関が迫っているからだ。新大阪駅で子供を改札の外に出して、親と再会させなければならない。もちろん、誰にもばれずに。
……やっぱり、迷子として一緒に出るのが確実か。そのあとは親に連絡をして迎えにきてもらう……今日中の迎えが無理なら、子供は一晩俺の部屋に泊める。
それがいい、そうしよう、と俺は計画を決めて小さくうなずく。もたれていた扉から背を離した。
「おい」
呼びかけると、椅子に座る子供はまどろんでいたのか下げていた顔を上げて、少しぼんやりとした目を向けてきた。
「寝るなよ。もうすぐ新大阪駅に着くからな」
「……おかあさんにあえる?」
「ああ。だけど、会うまでは俺の言うことを聞くんだぞ」
「うん」
返事をする子供の顔がほころんで明るくなった。
――ああ、やっぱり、親に会えるというのは嬉しいものなんだな。
今まで不安そうで表情は固かった。明らかな子供の変化に、俺は妙な納得を覚える。
擬人には他の生物でいうところの『親』という存在がいない。俺達は自分でもはっきりと認識できないどこかから誕生して、この世を生き始める。
だからか、人間達を見てときどき考えてしまうのだ。俺達にとって『親』とはどういう存在になるのかと。
この子供のように強く会いたいと思える。そばにいることが幸せだと感じる。共にいながら生きるということを教えてくれる。
そういったものを抱くことができる相手が親だというのなら、俺にとっては……やはり、島さんや十河さん、だろうか。
胸の奥のほうがうずく。
二人と過ごした日々が脳裏を過ぎって、意識が過去に沈みそうになる。
俺は懐かしい記憶から離れるように、懐中時計を握る手に力をこめて、盤面に視線をやった。一秒一秒、一定に時を刻む針を見つめながら運行感覚に集中して、乱れた気持ちを落ち着かせる。
「まもなく、終点の新大阪に到着します」
最後の難関の始まりを告げるアナウンスが流れた。
――ここまできたら、確実に子供を親のもとへ送り届けるまでだ。
俺は再度決心すると懐中時計をしまって顔を上げた。
列車が速度を落とし、新大阪駅のホームに入線する。
子供がそわそわとした様子で俺を見つめてくる。
「ちょっと待ってろ。他の乗客が降りてから降りるからな」
言って、俺は確認のために乗務員室から出た。デッキのほうを見れば、乗降口から貫通扉を過ぎたところにまで、気の早い乗客がすでに列を作っている。
ほどなくして、定刻通りに列車が駅に完全に停車した。圧力を抜く音がして乗降口の扉が開く。乗客達が次々とホームに降りていく。
……よし。
俺は、人の流れが途切れ、開きっぱなしの貫通扉が閉まったところで乗務員室に戻った。
「行く……え」
扉を開けて呆然とする。
室内に子供の姿がない。
「おい……?」
呼びながら端から端まで視線を巡らせるが見当たらない。狭い室内に隠れられるような場所もない。
どこに行った? まさか、待ちきれずに一人で出ていってしまったのか?
「っ、」
慌てて乗務員室から出て車内を捜す。デッキにもいない、トイレの中ものぞいたがはずれだ。
自分が見ていたのとは逆の貫通扉を通って別の車両へ入る。座席の陰にも視線を走らせたがいない。
……もう車内にはいないのか? ホームへ降りてしまったのか?
二車両分を過ぎて、外を捜したほうがいいのではと思えてきた。しかし、まだ車内にいるのなら、他の乗務員に見つかる前に見つけなければいけない。
どうするべきかともどかしく悩みながら三車両目の貫通扉へ。
過ぎようとして、俺はつんのめるように足を止めた。
「わっ! 東海道新幹線、殿……?」
開いた貫通扉の先に松田乗務員が立っていた。
「あ……悪い」
「どうかされたんですか?」
焦りが顔に出ていたのだろうか。松田乗務員が心配そうに尋ねてきた。
――子供を見かけなかったか?
俺はわき上がってきた問いを喉元で堪えた。
聞きたいが、聞いたら無賃乗車をさせたことがばれてしまう可能性が高い。
ここも切り抜ける。早々に。
「いや、何でもない」
俺はすぐに普段の冷静な態度を取り繕った。
「松田乗務員。この列車は車両基地に回送になる。車内に乗客が残っていないか、しっかり確認しておけ」
「は、はい!」
姿勢を正して返事をする松田乗務員に、俺は背を向けて歩き出す。
あの乗務員がやってきたほうに子供はいないだろう。ここまで車内を見てだめなのだから外を捜そう。
俺は近くの乗降口からホームに降りた。
列車に沿って辺りを見るがいない。早足でホームを一周してみたが、影も形もない。
こうなると、残すところは改札のほうか。こんな時間に子供が長い間一人でいたら、駅員につかまってしまう恐れがある。早くしないと。
残る可能性に願いながら、俺は階段を駆け下りた。
最終列車が終わった改札内に人の姿はまばらだ。声を上げて捜したい思いを我慢しながら、まずは待合室を。次いでトイレを。そして、改札の近くに足を進めた。
改札を通っていく人々とその周りを眺める。
三分ほどそうしていたが、捜す子供の姿は現れない。
「……どこ、行ったんだよ……」
落胆が肩を重くする。無意識のうちにため息とともに失望がこぼれ出ていた。
なぜいないのか。新大阪まで一緒にきたんだ。どこかにいるはずなのに。
自分が置かれた状況が理解できず、改札を見たまま俺は途方に暮れた。
「――シン」
不意に、立ち尽くす俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
はっとして周りを見回せば、東海道本線がそばにやってきていた。
「お疲れ様」
「……何の用だ、じじい」
「おぬしがいるのが見えてのう。もうそろそろ仕事は終わりじゃろ? 山陽からよい酒をもらったんじゃが、一緒にどうじゃ?」
「悪いが、そんな暇はない」
「ふむ……何か捜しものか?」
「!」
俺は東海道本線の顔を見つめた。黒茶色の瞳がこちらをまっすぐとらえている。その表情は普段見かける飄々としたそれ。だが、向けられている瞳からはいつもよりも強い意思と鋭さが感じられた。まるで、俺の心を見透かしているかのようだ。
「っ……」
何でもない、という言葉を呑み込む。
――もしかしたら。
さっと周囲に視線を巡らせる。近くに駅員や乗務員がいないのを確認してから、一歩、東海道本線のほうに足を進めた。
声をひそめて言う。
「この辺りで子供を見なかったか? 俺の腰ぐらいの身長で、長袖の白いシャツに紺の半ズボン、黒色の短髪と目の男の子だ。そんな子供が一人でいるのを見てないか?」
「子供?……はて、見ておらんのう」
「そうか……」
賭けてみたがだめだった。
俺は進めた足を引きずるように下げた。
「迷子か? わしも捜すのを手伝うぞ」
「いやっ、いい!」
東海道本線の提案に俺はすぐに首を横に振った。
深く追求されたらやばい。
「俺の問題だから、俺だけでどうにかする」
そう言い終えるや歩き出し、さっさと東海道本線の横を通り過ぎる。
自分でも、苦しい理由だと、不審に映っただろうと思えた。しかし、普段何かとかまってくる東海道本線は不思議なことに、言葉ですら俺の後を追ってくることはなかった。
それから、俺は駅が閉まるまで、改札内だけでなく外も捜し回ったが、ついに子供を見つけることはできなかった。
◆
コンコースを歩く足が重い。ため息が何度もこぼれそうになる。
結局、子供はどこへ行ってしまったのか。今朝、駅員にそれとなく迷子について尋ねたが、昨夜も今もいないとのことだった。
俺はまだ諦めきれずに周囲を見回す。しかし、見覚えのある子供の姿はやはりない。
「おはよう、シン」
代わりにというか、視界に入ってきたのは知っている銅色の髪の人物。
「おはよう」
相手の爽やかな笑顔になんだか苛っとして、俺はそっけなく挨拶を返した。
東海道本線はそばまできて立ち止まると、少しだけ首をかしげた。
「なんじゃ、昨夜は眠れないほどに忙しかったのか?」
「まぁな」
「仕事を頑張るのもよいが、ちゃんと睡眠をとることも大切じゃぞ」
「わかってるよ」
俺だって好きで寝不足になったわけじゃない。朝から小言なんて言ってないで、さっさと在来線の改札のほうに行けよ。
うっとうしくて東海道本線から顔をそらす。
と、動かした視界にまた見知った人物の姿が映った。
「東海道!」
目が合った瞬間、声を上げて大股で足早に近づいてくるのは、山陽新幹線だ。
……ん? 顔色が悪い? 焦っているようにも見える。何かあったのか?
「東海道! 聞いて!」
「どうした」
詰め寄るような勢いの山陽に、俺は少し身構えて応答する。
山陽は眉を寄せて泣きそうな表情を浮かべ、悲痛な声で続けた。
「また、あの幽霊が出たんだって!」
……なんだって?
「しかも、今度は女の幽霊だけじゃなくて、子供もいたって! まるで親子のように駅を一緒に歩いていたって! 駅員や、昨日君に乗務していた乗務員も見たって……! どうしよう、東海道……!」
俺は、叱るために開いた唇を何も発しないうちに閉じていた。
――女、子供、親子。
山陽が言ったそれらの言葉が思考に引っかかったのだ。
突然にいなくなった、母に会いたがっていた子供のことが脳裏に鮮明によみがえってくる。
いや、まさかな……とそう思いながらも、俺は尋ねずにはいられなかった。
「山陽、その子供の幽霊は、黒色の短髪に長袖のシャツと半ズボン、だったか?」
「え……、うん、たしか、そんな感じ……。えっ、もしかして東海道も見たの?!」
目を見張った山陽の問いに、俺は返事ができなかった。
あの子供が幽霊だって……? そんなはずがない……だって、たしかに一緒に名古屋から新大阪まできたんだ。……でも、途中でいなくなった。誰にも見つからずに出るなんてできないはずなのに、煙のように消えてしまった。……いいや……でも……。
信じられない気持ちと信じようとする気持ち。相反する気持ちがせめぎあって、頭が痛くなりそうだ。
「東海道……?」
山陽が俺を呼ぶ。
意識をそちらにやれば、不安そうな泣きそうな顔が見つめている。
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
――こいつに、情けない様子を見せたくはない。
わき上がってきた、始まりの新幹線たる自尊心が惑いを無理やり抑え込む。
俺は短く息を吸った。
「山陽」
「なに……いった!」
人差し指で山陽の額を弾いてやると、その顔から悲痛な色が飛んでいった。
「ちょっと、何するのさ!」
「それはこっちの台詞だ」
抗議の声を上げる山陽に、俺は腕を組んで見据える瞳に力をこめた。
「朝っぱらからばかなことを言って、油売ってないで仕事しに行け」
「え、でも」
「さっさと行け」
相手の応酬を遮るようにもう一段階語調を低く強くして言えば、眼前の表情は凍りつくように硬くなった。
「……わかったよ」
そして、一呼吸分の沈黙の末、山陽は弱々しい声で返事をすると、踵を返してほとんど走るような速さで去っていった。
……はぁ。
山陽の姿が人混みに紛れ、完全に見えなくなったところで、俺は力を抜いた。
すると、意識にあの子供のことが戻ってきて、何ともいえない気分に襲われた。
……幽霊、か……。
「大変じゃのう」
ふと、すぐ近くから聞こえてきた声に振り返れば、東海道本線が立っていた。
忘れていた。まだいたのか。
ということは、山陽とのやりとりを全て見られていた。優れない気分に不愉快さが混じる。
「あんたも、早く在来線のほうへ行って仕事したらどうだ」
「ああ。じゃが、その前におぬしに言っておきたいことがある」
「なんだよ」
また小言か。
げんなりとした気持ちで聞き返すと、東海道本線の表情がすっと真剣なものに変わった。
「シン、走り続けておれば、色々なことが起こる。じゃが、何があっても己の存在意義は忘れるな。己が単なる鉄路を走る者ではなく、何かと何かを繋ぐ者でもあることを忘れるな」
いきなり、なんだ。
東海道本線から発せられた言葉は小言というには妙に重く、頭の芯まで響く感じがして、自然と背筋が伸びた。
どうして、そんなことを言う……?
「おい、」
「さて、今日も一日頑張るとするかのう。何事もなく終わるといいのう」
俺が疑問を口にしようとすると東海道本線は一変。いつもの飄々とした態度に戻って、先程のことなどなかったかのような雰囲気で歩き出した。
俺のほうをちらりとも見ることなく、そばを通り過ぎていく。胸中にもやもやとしたものを感じたが、なぜか相手を止める気にはなれなかった。
だんだんと銅色が離れ、小さくなっていく。
「――あのぅ、すみません」
視界の外から呼びかけられた。
東海道本線の後ろ姿から声のほうに目を移せば、若い女性の二人連れがこちらを見て立っていた。
「東京に行きたいんですけど、新幹線の乗り場はこっちで大丈夫ですか……?」
旅行者か。
心配そうな顔の女性達に、俺は仕事の顔になって答える。
「はい。この通路をまっすぐに行ってください。そうすれば、左手のほうに改札が見えてきます。きっぷは、改札に向かって右のほうに窓口があるので、そこで購入してください」
「ありがとうございます」
女性達はどことなくほっとした様子で一礼して、俺が示した方向へと歩いていった。
視線を東海道本線が去ったほうに戻すと、もうその姿はなかった。
……何かと何かを繋ぐ者、か。
東海道本線の言葉を思い出しながら周囲を見やれば、人々がそれぞれの目的地に向かって歩みを進めている。
懐中時計を取り出せば、それは今日も一定の時を刻み続けている。
――存在意義。自分の。
俺は列車の走行を身に感じながら前を見た。
「……行くか」
昨夜の子供のことは気になるが、そればかりにかまっているわけにはいかない。
他にも自分を必要とする者がいる。今日も走るべき理由がある。
俺は新幹線の改札口に向かい、足を踏み出した。