鉄路を走る者/営む者 5


 あれから一時間後に、東海道新幹線は無事に運行を再開した。遅延も少しずつだが解消していき、夕方を迎える頃には大きな遅れはほぼなくなった。
 本社の執務室で東海は、パソコンの画面に表示されている運行状況を見ながら安堵の息を吐く。
 しかし、画面を見る表情から憂いの色は完全にはなくならない。
(……そろそろ、東海道新幹線の様子を見に行ったほうがいいかしら)
 運行を再開すると同時に、業務が忙しくなるだろう東海道新幹線の邪魔にならないようにと、「何かあったら連絡しなさい」という言葉だけを残して東海は執務室に戻っていた。
 そばにいなくても行える彼の運行の補助――在来線の特急との接続の調整など――はしていたが、別れて以降会うことも連絡もしていない。
 運行は順調に回復しているが、当の東海道新幹線自体はどうなのか。無理をしている場合、今は平気でも後になって悪影響が出る可能性がある。それに、路線擬人達を管理する者として、自分を有する人間に彼らの調子を報告する義務もある。
 時刻は十六時半前。
 運行に関しては人一倍真面目な東海道新幹線のことだ。あまり遅くなると、運行関係の様子を見るために名古屋駅から出て他の駅に行ってしまうだろう。
(行くなら今のうちね……)
 東海は少し考えたあと、胸ポケットから取り出した手帳を開き、書いてある電話番号の一つに電話をかけた。
「はい。カフェジャンシアーヌです」
 二コール目で若い女性の声が聞こえてきた。
「JR東海主幹だけど、今から二人分の席の予約はできるかしら?」
「東海主幹さん、いつもお世話になっています。少しお待ちください」
 明るい保留音に切り替わり、約二十秒後。
「お待たせしました。大丈夫です」
「そう。なら、席に着いたら、ホットコーヒーとぴよりんを一つずつ持ってきて頂戴」
「はい。お越しをお待ちしています」
 通話を終えると、東海は椅子から立ち上がった。部屋の扉に向かって歩き出す。
 その足の行く先は、名古屋駅ホームの事務室――東海道新幹線のところだ。


 多くの人が行き交う名古屋駅のコンコースを進んでいく。
 東海道新幹線の運行が再開し遅れもずいぶんと解消されてきていることもあり、不安や焦りなど負色の表情をしている人はほとんど見かけない。混乱もないようだ。
 東海は駅構内の様子を視認しながら、少し早足で歩いていく。改札を通り抜けてホームに上がると、まるで繁盛期のときのように人が多い。新幹線の到着を待つ人、到着した新幹線から降りる人や乗る人。それらの人々の横を過ぎていき、端にある東海道新幹線の擬人のための事務室へ。
 扉の前で立ち止まり、東海がノックをしようと丸めた片手を持ち上げたときだった。
 かちゃり、と音を立てて目の前の扉が開いた。
 見慣れた橙色の線が入った黒い制服と白い髪が視界に現れる。
 入れ違いにならなくてよかった。
「ご苦労様」
 東海がいつものように平静に言えば、東海道新幹線は面食らった様子で扉の外に踏み出そうとしていた足を戻した。予想なんてしていなかったのだろう。戸口の前で立つ東海を三秒ほど茶色を帯びた瞳で見つめてから、驚きに乱れた気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと唇を動かす。
「なに、してるんだ」
「貴方に用があってきたのよ」
「……用ってなんだ?」
 瞬き一つ分の黙考を挟んで東海道新幹線がさらに尋ねる。
 東海は一瞬用件を言おうかと思ったが、貴方の体調を確認するためについてきてほしい、というような言葉を口にすることに抵抗を覚えた。
「三十分ほど付き合いなさい」
 だから、問いには答えず、返事も待たず、背を向けた。
 相手の惑う気配を感じ取り、一歩足を踏み出したところで顔だけで振り返って念を押す。
「ほら、行くわよ」
「……わかったよ」
 東海がさっさと歩を進めれば、怪訝そうな表情をしながらも東海道新幹線はそのあとに続いた。
 ホームからコンコースに降りる。人並みを避けながら黙々と歩みを進めていく。目的地は構内に入っている飲食店だ。黄色いひよこ型の洋菓子『ぴよりん』が大きく載った看板を店頭の上に掲げた、カフェジャンシアーヌ。執務室で電話をかけた店だ。
「ここ……」
「入るわよ」
 何か言おうとした東海道新幹線を遮って、東海は店内に入っていく。わずかに顔を歪めながらも、東海道新幹線は黙ってあとに続いた。
「東海主幹さん、いらっしゃいませ。お席はこちらになります」
 呼ぶ必要もなく店員が寄ってきて、四角い机を挟んで椅子とソファーの席が置かれた禁煙席の一つに二人を案内する。
「ありがとう」
 礼を言って東海が通路側の椅子に座ると、東海道新幹線は残ったソファーのほうに腰を下ろした。
 店員は着席する二人を見るとすぐに離れていった。
 机の上には砂糖と紙ナプキン、今の一押しメニューのお知らせ、それら以外はない。
 東海道新幹線が辺りを見回してから、沈黙に落ち着かない様子で口を開いた。
「……東海」
「待ってなさい」
 東海がすかさず言えば、東海道新幹線は不満そうな表情のままで口をつぐんだ。
 一往復だけの会話が途切れて、約三分後。
「お待たせしました」
 席に案内したのと同じ店員が食器などを載せたお盆を手に戻ってきた。
 二人の間にある机に、お冷やが二つ、ホットコーヒーとぴよりんが一つずつ置かれる。
「ごゆっくりどうぞ」
 最後に一言と伝票を残して店員は去っていった。
 東海は中央に置かれたホットコーヒーのカップを自分のほうに引き寄せて、ぴよりんの乗った皿を東海道新幹線へ寄越した。
 当然、予想していたとおりに東海道新幹線の顔が怪訝な色を浮かべる。
「おい……」
「貴方のよ」
 疑問の呼びかけに一言で応えて東海がコーヒーを飲む。心地よい温かな苦味が喉を通っていく。気分が落ち着いて、あらためて引き締まる。
(……さてと)
 東海はカップを受皿に戻した。
 正面の東海道新幹線は、まだ惑いの表情で黄色いひよこ菓子とにらめっこをしている。
 甘いものはだめだったかと記憶を手繰り、念のために言葉に変えてみる。
「ぴよりん、嫌いだったかしら?」
「いいや……」
 小さな返事をした東海道新幹線が東海と視線を交える。
 その茶色がかった眼は他に何か言いたげだったが、結局一音も発することなく再びぴよりんを見た。そして、皿に添えてあったスプーンを手に取って、数秒迷った様子を見せたあと、皿を回してぴよりんの背中側から食べ始めた。
「………」
 言葉なく食べ続けている東海道新幹線は笑顔とは遠い表情をしているが、一口食べたときにその眉が少し上がったのを東海は見逃さなかった。
(……大丈夫のようね)
 ぴよりんへ伸ばされる手はほとんど止まることなく、十分とかからずに食べ終えた。
 東海道新幹線がスプーンを皿に置く。
「美味しかった?」
 東海が聞けば、東海道新幹線は一瞬躊躇した様子を見せてから、
「まぁ……」
 やや無愛想な顔で曖昧な返事をした。
 しかし東海には、それが負けず嫌いの性格からきているものだと考えなくともわかった。いつもどおりの反応である。だから、「そう」と短い返事だけをしてコーヒーを口にする。
「………」
 東海道新幹線は相変わらずの面持ちで黙って東海を見つめる。
 向けられる視線の意味を当然、東海は察していたが何も言うことなくコーヒーを飲み終えた。
 置いたカップから放した手で、机の隅にある伝票を取って椅子から立ち上がる。
「行くわよ」
「? ああ……」
 東海が声をかければ、東海道新幹線はどこかはっとした様子で返事をしてソファーから腰を上げた。
 視界の端でそれを確認した東海は先に店の出入口のほうに歩いていき、会計を済ませた。
 ありがとうございました、と店員の明るい声を背中に聞きながら二人で店の外に出る。
「東海道新幹線」
 少し行ったところで東海は立ち止まり、後ろを歩く東海道新幹線に振り向いた。
 自分を見返してくるその顔には怪訝と緊張が混ざっているが、血色は悪くない。言動も普段のそれと変わりなかった。
 東海は自分の中で答えを出して口を開く。
「それじゃあ、残りの仕事を頑張りなさい」
「用事は……?」
「貴方への用事なら終わったわ」
 東海道新幹線が、一体何が……?、とばかりに茫然とする。
 少し待ったが返事もなく動きもしない相手に、東海は訝るように黒茶色の目を細めた。
「何してるの? もう大丈夫なんでしょう? 早く行きなさい」
「……ごちそうさま」
 納得できないが、これ以上聞くこともできない。そんなしぶしぶといった様子で東海道新幹線が新幹線改札口のほうに歩き出す。
 白髪の揺れる背中を東海は無言で見えなくなるまで見送った。
 静かに息を吐く。
(元気そうでよかったわ)
 一安心して、携帯端末を取り出す。電話帳を開き、『JR東海社長』と表示されている電話番号を選択して耳に当てた。
 ややあって聞こえていたコール音が途切れ、壮齢の男の声が応答する。
「はい」
「お疲れ様です。東海主幹です。東海道新幹線の容態について電話しました」
「彼はどうだね」
「東海道新幹線の容態ですが、問題ありません。引き続き運行を任せても大丈夫です」
「そうか。それはよかった。しかし、また今回のようなことがあれば新幹線の信用に関わる。今後は、代理で早急に運行再開することを視野にいれて対応してくれ」
「了解しました」
 東海が返事をすると通話は終わった。
(……代理、ね)
 通話終了の表示から自動的に待受の画面に戻った携帯端末を見つめ、先よりも意識的にゆっくりと息を吐く。胸中に生じた不快な気持ちを追い出すように少し長く。
 擬人と人間は似て非なるものだ。生まれや育ちもそうだが、鉄道の運行を正常に保つという志は同じでありながら、その根底にある理由や意味は異なっている。
 例えば、今回のように路線の擬人が倒れて運行が止まった場合。与えられた鉄路を走ることを存在意義とする擬人にとって、己の路線を他の擬人に任せるということは自分の存在を脅かすことに等しい。しかし、人間にそのことをわかっている者は少なく、別の擬人を代理に立ててすぐに運行再開させようと思うのがほとんどだ。
 それは、しょうがないこと。そこに善悪はない。どちらが良い悪い、正しい誤っている、というわけではない。
 それを理解して、鉄道路線の擬人達と彼らを必要とする人間達との間を取り持ち円滑にするのが、『営む者』と呼ばれる擬人の役割。
 ――自分の、存在意義。
 だから、あの言葉に心を苦くすることはない。相違はあって当たり前。そこを上手く調整するのが、自分のやるべきことなのだ。
 東海が揺らぐ感情を思考で落ち着かせて、携帯端末をしまおうとしたとき、手中のそれが着信を知らせた。
 画面に浮かぶ文字列は、『JR西日本主幹』。
 携帯端末の通話ボタンを押して、再び耳に当てる。
「はい、JR東海主幹」
「西だけど、東海道新幹線の調子はどう?」
 聞き慣れた若い男の声音に、東海は気持ちを引き締め直しながら応える。
「大丈夫よ。運行再開しているでしょう」
「……東海、なんかあった?」
 なぜ、わかるのだろうか。
 素っ気なくした物言いに、西は臆することなく聡い反応を返してきた。東海が抱く負の感情の矛先が自分ではないことも、目敏く察知しているようだ。
 心配そうにする相手の顔が脳裏を過って、東海は眉を寄せて唇を動かす。
「東海道新幹線のダイヤがまだ乱れているからよ。これ以上の損失はあまり出したくないのに」
「それは、仕方がないよ……」
 あれで納得したのだろうか。
 西が苦笑いを含んだ声でそれだけ言った。
 東海はまた何か気づかれる前に、しれっとした口調を保って言葉を重ねにかかる。
「貴方がそれを私に言う? せっかく忠告したのに、運行再開前に山陽新幹線から東海道新幹線へ電話がかかってきてたわよ」
 指摘すれば、西が軽く息を呑むのがわかった。
「あ、えっと……ほら、あの二人は国鉄時代からの仲だから、どうしても心配だったんだよ」
「………」
「いや、ちゃんと言ったんだよ? 『東海道新幹線のことは東海主幹に任せて、自分の運行に集中してくれ。大丈夫。連絡はあとから必ずあるから』って……」
「………」
「すみませんでした」
 歯切れの悪い弁解が、不穏な沈黙についに敗北した。
 東海が西に聞こえるよう、大きめにため息を吐く。
「次は気をつけなさい」
「はい、わかりました。……ふふ」
 気落ちした返事のあとに小さく聞こえてきた笑い声に、通話を終えようとしていた東海は発するはずだった言葉を疑問に変えた。
「なによ」
「いや、東海が元気そうで良かったなって」
「失礼ね。こんなことで屈する私じゃないわよ」
 見えないと知りつつも、東海は眼光を鋭くして睨むように言い返した。
 そう、これぐらいは平気だ。民営化直後の山積みの課題や苦労を思えば、今回の事態は肝は冷えたがまだ軽いものだ。
 長年の付き合いだ。対面していなくとも、今の東海の不機嫌は感じ取れるはずだが、西はどこか嬉しそうな、安堵を含んだ声のままで応答する。
「わかってるよ。じゃあ、仕事に戻るからそろそろ切るよ。東海、無理はしないでね」
「貴方は、部下に舐められないようにしっかり仕事しなさい」
「相変わらずひど」
 言葉の途中にも関わらず、東海は容赦なく通話を切った。
 携帯端末をしまい、新幹線改札口側とは反対の方向に歩き出す。
(相変わらずなのはどっちよ。私の心配よりも、自分の心配をしなさいよ)
 JR西日本は民営化してから時間が経った今でも、何かと問題を起こすきらいがある。同じ本州三者として、もう少し身を引き締めてほしいものだ。
 妙にしゃきっとしない表情をする黒髪の男が頭に浮かんで、東海は思わず呆れを吐息に乗せた。
 と、彼と会話する前に感じていた胸中の重たさがなくなっていることに気がついた。
 穏やかな声が耳によみがえる。
「……ったく」
 愚痴っぽく小さくつぶやいた東海の口元が、少しだけゆるんだ。